大河ドラマ『豊臣兄弟!』第36回で描かれる、長宗我部元親の四国統一。だが、その覇道の前に最後まで立ちはだかった男がいた。阿波・讃岐に勢力を張った名門三好一族の将、十河存保(そごう まさやす)である。三好の血を引き、元親と四国の覇権を争い、敗れてなお中央を頼って再起を期し、最後は皮肉にも元親の嫡男・信親とともに九州の戦場に散った。元親の物語の「影の主役」ともいえる存保の生涯をたどる。
名門・三好一族に生まれ、十河家を継ぐ
天文23年(1554年)、十河存保は三好長慶の弟・三好実休の次男として生まれた。畿内に一大勢力を築いた三好一族の血筋である。のちに讃岐の名族・十河一存の養子となって十河城を継ぎ、十河存保と名乗った。兄・三好長治の死後は阿波の三好本宗家を受け継ぐ立場も担い、阿波・讃岐にまたがる勢力を率いる、四国東部の要の武将となる。
元親の四国制覇に立ちはだかる
土佐から怒濤の勢いで四国統一を推し進めたのが長宗我部元親であった。その前に、東讃・阿波を押さえる存保こそが最大の抵抗勢力として立ちはだかる。存保は羽床資載や矢野国村ら阿波・讃岐の国人衆を束ね、本拠・勝瑞城(しょうずいじょう)を拠点に、押し寄せる長宗我部軍を迎え撃つ構えを取った。
中富川の戦い ― 勝瑞城の落日
天正10年(1582年)、本能寺の変で頼みの織田の支援を失った存保に、元親は総攻撃をかける。両軍は中富川で激突した。増水した川を挟む激戦の末、存保は大敗を喫し、本拠・勝瑞城を放棄して虎丸城へと後退する。さらに天正12年(1584年)には十河城・虎丸城も落城し、存保は四国での地盤をほぼ失った。四国統一へ突き進む元親の勢いを、もはや一人では止められなかった。
信長、そして秀吉 ― 中央の力を頼る
単独では元親に抗しきれない存保は、中央の権力者を頼る道を選ぶ。天正9年(1581年)には織田信長の支援を得て反攻を試みたが、本能寺の変でその望みは断たれた。次いで羽柴秀吉に接近する。天正13年(1585年)、秀吉の四国攻めによって元親が降ると、存保は「十河孫六郎」として讃岐に3万石を与えられた。だが三好本宗家の継承権も阿波の領有も否認され、往時の勢力が戻ることはなかった。
戸次川に散る ― 元親の嫡男・信親とともに
運命は皮肉であった。天正14年(1586年)、秀吉の九州征伐で、存保はかつての宿敵・元親、そして元親が誰より愛した嫡男・信親と、同じ豊臣軍として島津軍に立ち向かう。しかし軍監・仙石秀久の失策から、戸次川の戦いは豊臣方の大惨敗となった。この戦いで長宗我部信親が討死し、十河存保もまた命を落とす。享年33。四国の覇権を争った二人の因縁は、遠く九州の地で、最も悲劇的な形で交わったのである。
敗者から見る、四国統一の物語
元親の華々しい四国統一の陰には、存保のように敗れ去っていった名将たちがいた。存保が最後まで背負った三好の名と、元親の覇道——その両面をあわせて見ると、四国の戦国史は一段と立体的に浮かび上がる。元親と弟たちの物語や、戸次川の悲劇とともに読むと、勝者と敗者、それぞれの戦国が見えてくるだろう。
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