今夜の大河『豊臣兄弟!』で四国を統一した長宗我部元親。その栄華を受け継ぎながら、わずか一代でそのすべてを失った男がいる。元親の四男・長宗我部盛親(ちょうそかべ もりちか)である。兄・信親の悲劇的な死によって思いがけず家督を継ぎ、関ヶ原で土佐一国を失い、京の片隅で寺子屋の師匠として雌伏し、そして大坂の陣に一族再興の望みを託して散った。元親が築いた土佐長宗我部氏、その最後の当主の生涯をたどる。
思いがけぬ後継 ― 兄・信親の死から
天正3年(1575年)、盛親は長宗我部元親の四男として生まれた。本来は家督とは縁遠い立場だったが、天正14年(1586年)、嫡男・信親が戸次川の戦いで討死したことで運命が変わる。愛息を失った元親は四男の盛親を強引に後継に指名し、これに反対した重臣や兄・津野親忠は退けられ、家中に深い禍根を残した。慶長4年(1599年)、元親の死により盛親は土佐22万石を継ぐ。
関ヶ原 ― 戦わずして土佐を失う
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦い。盛親は西軍に加わったが、南宮山に布陣したまま思うように動けず、ほとんど戦うことなく西軍は敗れた。さらに兄・津野親忠を殺害した嫌疑も重なり、徳川家康は盛親から土佐一国を没収する。元親が一代で築いた大国は、こうして長宗我部の手を離れた。
京での雌伏 ― 寺子屋の師匠として
すべてを失った盛親は、京都に移り住む。「大岩祐夢(おおいわゆうむ)」と名を変え、寺子屋の師匠として子どもたちに読み書きを教えながら、約15年もの浪人生活を送った。かつて土佐22万石の主だった男が、市井で糊口をしのぐ日々である。だが盛親は、一族再興の望みを決して捨ててはいなかった。
大坂の陣 ― 再起に賭ける
慶長19年(1614年)、豊臣と徳川の対立が大坂の陣へと発展すると、盛親は旧臣を率いて大坂城へ入った。真田幸村や毛利勝永らと並ぶ「大坂五人衆」の一人として迎えられる。翌慶長20年(1615年)夏の陣・八尾の戦いでは、藤堂高虎の軍勢を相手に奮戦し、これを一時撃破するほどの働きを見せた。土佐武士の意地を、盛親は最後の戦場で示したのである。
六条河原に散る ― 長宗我部氏の終焉
だが大坂方全体の敗勢はいかんともしがたく、落城後、盛親は京都で捕らえられた。慶長20年(1615年)、六条河原で斬首。享年41。元親が土佐一国の兵で四国を切り従えた長宗我部氏の嫡流は、ここに絶えた。四国統一の栄光と、その終焉——長宗我部の物語は、父・元親から子・盛親へと、わずか二代で駆け抜けたのである。
栄華と没落のあわいに
元親が築いた四国の覇業は、十河存保ら数多のライバルを退けて頂点を極めたが、その版図は子・盛親の代にあっけなく潰えた。栄華と没落の落差こそが、戦国という時代の非情さを映している。元親と弟たちの物語や、四国をめぐる攻防の全体像とあわせて読むと、土佐長宗我部氏の光と影が、より深く見えてくるだろう。
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