斎藤鎮実 | 大友家臣。高橋紹運の義兄で耳川の戦いに討死

さいとう しげざね

地域九州
所属勢力・属性大友家
大名家大友家
家紋―
主武器太刀
衣装・甲冑塗具足
武将タイプ勇猛・悲壮

斎藤鎮実(さいとう しげざね)は豊後大友氏の家臣である。父・長実は大友義鑑に誅殺されたが、鎮実は大友宗麟に仕えて筑後・肥前の戦いに出陣した。妹(娘とも)は高橋紹運に嫁ぎ立花宗茂の母となった。天正6年(1578年)の耳川の戦いで討死した。

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父の誅殺と大友家

鎮実の父・斎藤長実は大友氏の重臣で、加判衆(当主の文書に連署する重臣)を務めた。長実は天文19年(1550年)、大友義鑑の家督問題をめぐって義鑑に誅殺されたとされる。直後に義鑑も家臣に襲われて死去し(二階崩れの変)、嫡男の義鎮(宗麟)が家督を継いだ。

鎮実の「鎮」の字は義鎮からの偏諱(主君の名の一字を与えられること)と考えられる。

宗麟のもとでの戦歴

鎮実は宗麟のもとで各地の戦いに出た。二階崩れの変後の入田親誠討伐、菊池義武や高橋鑑種の反乱鎮圧に加わったとされる。永禄10年(1567年)には筑後の軍勢を率いて筑紫惟門と戦い、元亀元年(1570年)には龍造寺隆信との今山の戦いに参陣したとされる。

鎮実の妹は高橋紹運に嫁ぎ、立花宗茂の母となった。『寛政重修諸家譜』は鎮実の娘とするが、妹を養女としたものとみられている。

耳川の戦いでの討死

天正6年(1578年)、大友軍は日向に侵攻し、島津方の高城を囲んだ。鎮実はこの出陣に慎重な意見を述べたとされる。

11月、田北鎮周が独断で川を渡って島津軍に攻めかかると、鎮実は吉弘鎮信・佐伯惟教らとともにこれに続いた。大友軍は島津軍の伏兵と側面攻撃を受けて崩れ、鎮実も討死した(耳川の戦い、高城川の戦いとも)。

耳川の戦いでは田北鎮周・佐伯惟教・吉弘鎮信ら多くの重臣が戦死し、大友氏は大きく勢力を落とした。これを機に筑後や肥前の国人が相次いで離反し、龍造寺氏・島津氏の台頭を許すことになる。

参考にした資料

大友家

主家

家臣団

立花道雪高橋紹運
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