すげのや かつさだ
| 地域 | 常陸(茨城県) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 小田氏家臣 |
| 大名家 | 小田氏 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | ― |
| 衣装・甲冑 | ― |
| 武将タイプ | 智勇兼備 |
菅谷勝貞は常陸の小田氏に仕えた戦国時代の武将とされる。霞ヶ浦に近い土浦城を預かり、主家の小田氏を支え続けたと伝わる。
土浦城のはじまり
土浦城は、今の茨城県土浦市にあった平城である。霞ヶ浦の近くの低い土地にあり、まわりを水堀で守る城だった。
城のはじまりは室町時代の永享年間(1429〜41)である。小田氏に従っていた豪族の若泉三郎が築いたとされる。永正3年(1506)、若泉氏の土浦城は小田氏に攻め取られた。その後、小田氏の重臣である菅谷氏がこの城を預かるようになったとされる。
主君・小田氏と勝貞
小田氏は、藤原道兼の流れをくむ八田知家を祖とする常陸の豪族である。知家は源頼朝に従い、筑波郡小田に本拠を移して小田氏を名のった。一族からは宍戸氏や茂木氏なども分かれ出ている。
しかし小田氏は、やがて常陸に進出してきた勢力に押され、かつての勢いを失っていった。戦国時代には小田政治や氏治が勢力の回復をはかった。
勝貞が仕えた小田氏は、常陸国の小田城を本拠とした名門である。勝貞は智勇をかねそなえた人物で、利根川や小貝川の水運にも影響力を持っていたと伝わる。
小田氏は、北の佐竹氏や西の結城氏と領地をめぐって争い続けた。勝貞は小田氏の側に立って戦い、終生主家を支えたとされる。勝貞は天正3年(1575)に亡くなったとされ、跡は子の政貞が継いだと伝わる。
主家の没落と土浦城のその後
勝貞の主君の系統にあたる小田氏治は、永禄12年(1569)の手這坂の戦いで佐竹氏に敗れた。このとき氏治は、支城の土浦城に逃れている。土浦城は、小田氏にとって最後のよりどころの一つだったのである。
天正元年(1573)には本拠の小田城も落ち、氏治はふたたび土浦へ逃れたとされる。翌年の敗北で、小田氏の本家は事実上ほろんだ。
しかし小田氏治は、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めに従わなかったため、所領を失った。氏治はのちに越前へ移った。
北条氏が滅んだあと、関東に入った徳川家康は、次男の結城秀康に土浦城を与えた。秀康が越前に移ると、土浦城の城主は藤井松平氏、西尾氏、朽木氏、土屋氏、大河内松平氏とめまぐるしく変わった。
ゆかりの地
- 土浦城跡(茨城県土浦市):菅谷氏が預かったとされる小田氏の支城
参考にした資料
菅谷勝貞とは
菅谷勝貞は、常陸の小田家に仕えた重臣です。子の政貞とともに小田家を支えました。
土浦城
勝貞は、のちの土浦城の地を拠点としたとされます。
小田氏治
勝貞の主君・小田氏治は、何度城を失っても取り返したことで知られる当主です。
主家の没落
小田家は、佐竹家との争いの中で力を失い、天正18年(1590年)に領地を失いました。
評価
勝貞は、苦しい時にも小田家を離れずに支え続けた忠臣として語り継がれています。
このイラストについて
このイラストは、建てられている途中の城の前に立つ勝貞を描いています。
白髪とひげの年配の顔で、長く主家を支えた老臣の風格を表しました。
組み上げられていく城は、勝貞が関わった土浦の城をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
常陸の小田城を本拠とした家で、鎌倉時代からの名門・八田氏の流れをくむ。小田氏治は佐竹氏や上杉謙信、北条氏との戦いで何度も小田城を失ったが、そのたびに取り戻した。
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