神代勝利 | 山内二十六ヶ山の総領、龍造寺隆信の宿敵

くましろ かつとし

地域九州
所属勢力・属性肥前国人(山内)
大名家神代家
家紋―
主武器大太刀
衣装・甲冑漆黒重厚具足
武将タイプ不屈・宿敵

神代勝利(くましろ かつとし)は肥前北部の山地「山内」を治めた国人の頭目。三瀬城を拠点に龍造寺隆信と長く争い、金敷峠の戦いで勝ったが、永禄4年の川上合戦で大敗した。のち和睦し、永禄8年に畑瀬で病死した。

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山内の総領となる

肥前国の北部山地は「山内(さんない)」と呼ばれ、戦国期には神代氏の勢力下にあった。現在の佐賀市三瀬・富士のあたりである。

神代氏は筑後の高良大社の大宮司家から分かれたと伝わる。勝利の代にはすでに没落しており、肥前に移ったとされる。勝利は剣術にすぐれ、山内の豪族たちに推されて「山内二十六ヶ山」の総領になったという。この経緯は主に軍記物『北肥戦誌』などによる。天文元年(1532)に三瀬城主となったとされる。

龍造寺隆信との抗争

天文14年(1545)、勝利は少弐冬尚に協力し、龍造寺一族の討伐に加わったとされる。

勝利は少弐氏に味方し、佐賀平野で力を伸ばす龍造寺隆信と対立した。弘治3年(1557)には金敷峠の戦いで隆信の軍勢を破った。翌年には山内を奪い返し、この時に龍造寺方の小河信安を一騎討ちで討ち取ったと軍記は伝える。

しかし永禄4年(1561)の川上合戦で決定的な敗北を喫した。勝利は一時山内を離れ、波佐見方面へ逃れたとされる。隆信の軍をたびたび退けた勝利だったが、最終的な勝敗は龍造寺方に傾いた。

和睦と最期

永禄5年(1562)、龍造寺家臣の納富信景の仲介で和睦が成立したとされる。勝利の孫娘と隆信の子・家信との婚約が条件であった。

勝利は山内の畑瀬に退き、永禄8年(1565)に畑瀬城で病死した。墓は佐賀市富士町に残り、市の重要文化財に指定されている。嘉瀬川ダムの建設にともない、現在地に移された。三瀬城跡には勝利を祀る石祠がある。

ゆかりの地

  • 神代勝利公の墓(佐賀県佐賀市富士町小副川):石造宝篋印塔。佐賀市重要文化財
  • 三瀬城跡(佐賀県佐賀市三瀬村):勝利の本拠。勝利を祀る石祠がある

参考にした資料

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