関ケ原の戦いの勝敗を分けたのは、小早川秀秋が陣取った松尾山でした。じつはこの山をめぐっては、開戦前から知られざる争奪がありました。西軍が秀頼を迎える本陣にしようとした、という説もある松尾山城。その謎に迫ります。
関ケ原を見下ろす松尾山
松尾山は、関ケ原の戦場を南西から見下ろす標高約三百メートルの山です。ここに立てば、東西両軍の布陣が一望できます。戦場全体を見渡せるということは、どちらへ加勢するにも決定的な位置を占めるということ。この山を誰が押さえるかが、天下分け目の隠れた焦点でした。
街道の要地としての松尾山城
松尾山にはもともと古い山城がありました。中山道と北国街道が交わる交通の要地に位置するため、石田三成は関ケ原の決戦を前にこの城の改修と守備を重視したと伝わります。西軍にとって、背後を固め、東軍の動きを見張るうえで欠かせない拠点だったのです。
秀頼を迎える本陣だったのか
一説には、西軍はこの松尾山を、大坂城にいる豊臣秀頼や総大将毛利輝元を迎え入れるための本陣として整備しようとした、ともいわれます。もし主君・秀頼の旗が松尾山に翻れば、西軍の大義は揺るぎないものになったでしょう。ただしこれは確証のある話ではなく、あくまで推測の域を出ない説であることも付け加えておきます。
伊藤盛正の布陣
関ケ原の直前、この松尾山を守っていたのは、近くの大垣城主・伊藤盛正でした。西軍の一員である盛正が、要地である松尾山に布陣していたのです。ところが、ここに思わぬ人物が乗り込んできます。西軍でありながら去就の定まらない大軍を率いた、小早川秀秋でした。
小早川秀秋の占拠
戦いの前日とされる九月十四日、秀秋は一万五千ともいわれる大軍で松尾山に押し寄せ、布陣していた伊藤盛正を排斥して山を占拠したと伝わります。味方であるはずの西軍の陣を、力ずくで奪ったのです。この強引な行動は、すでに秀秋の心が西軍から離れていたことをうかがわせます。
山上からの裏切り
戦場を見下ろす松尾山を手にした秀秋は、本戦の最中に東軍へ寝返り、西軍の側面へ雪崩れ込みました。もし盛正がそのまま松尾山を守っていたら、あるいは秀頼の本陣がここに置かれていたら——関ケ原の結末は変わっていたかもしれません。関ケ原の「もしも」を語るとき、この松尾山城の争奪は外せない一幕なのです。
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