石田三成と関ケ原の大砲 ― あまり知られない「大筒」の話

笹尾山の陣に据えた大筒と鉄砲隊(関ケ原の大砲)

関ケ原の戦いといえば、火縄銃と槍と騎馬の戦いを思い浮かべます。しかし西軍を率いた石田三成は、この戦いで大砲(大筒)を用いたと伝わります。戦国ではめったに見られなかった兵器を、三成はなぜ関ケ原に持ち込んだのか。あまり知られないその一面を紹介します。

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戦国に大砲は珍しかった

火縄銃は戦国の合戦に広く普及しましたが、大砲は事情が違いました。当時の日本ではまだ数が少なく、大きな合戦でも大砲が使われることはめったにありません。理由は、高価なうえに重く、多くが海外からの輸入に頼っていたからです。持ち運びも難しく、動きの速い野戦にはそもそも向いていませんでした。

三成が用意した大筒

その珍しい大砲を、三成は関ケ原に用意したと伝わります。近江の鉄砲鍛冶で名高い国友に作らせた大筒だったとも、南蛮渡来のフランキ砲(石火矢)だったともいわれ、その正体には諸説あります。いずれにせよ、新しい兵器にいち早く目をつけるあたりに、実務と先進性を重んじた三成らしさがうかがえます。

笹尾山からの砲撃

三成が本陣を置いたのは、戦場を見下ろす笹尾山でした。ここから東軍へ向けて大筒を放ったと伝わります。ただし当時の大砲は命中精度も威力も限られ、戦局を一気に変えるほどの力はなかったようです。それでも、地を揺るがす砲声は敵味方に衝撃を与えたことでしょう。効果のほどには誇張も混じり、確かなことは多くありません。

なぜ大砲は戦国で広まらなかったのか

これほどの兵器がなぜ普及しなかったのか。ひとつは、値段の高さと輸入頼みという壁です。もうひとつは、日本の合戦が城攻めや野戦での機動を重んじ、据え付けて撃つ大砲が使いにくかったこと。鉄砲隊を密集させて撃つ戦法が完成していた日本では、大砲はまだ主役になれなかったのです。

大砲が主役になる時代へ

大砲がその真価を見せつけるのは、関ケ原から十数年後の大坂の陣でした。徳川家康は輸入した強力な大砲を大坂城へ撃ち込み、天守を揺るがして淀殿らを和議に追い込んだといわれます。時代はやがて大砲が戦を決める方向へ動いていきます。関ケ原で散った三成が用いた大筒は、その大きな流れの、ささやかな先駆けだったのかもしれません。

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