菅谷政貞 | 菅谷勝貞の子。父とともに小田家に絶対の忠義を尽くし、佐竹軍や上杉軍の大軍に対して激しい白兵戦を展開した猛将

すがや まささだ

地域関東
所属勢力・属性常陸小田家臣
大名家常陸小田
家紋丸に三ツ柏
主武器大槍
衣装・甲冑武骨重厚具足
武将タイプ勇猛・不屈の槍

菅谷勝貞の子。父とともに小田家に絶対の忠義を尽くし、佐竹軍や上杉軍の大軍に対して激しい白兵戦を展開した猛将。

目次

菅谷政貞とは

菅谷政貞は、常陸の小田氏に仕えた菅谷氏の武将です。父の勝貞とともに、小田氏治を支えた重臣として知られます。

小田氏

小田氏は、鎌倉時代から常陸南部を治めた名門で、小田城を本拠としました。戦国時代の当主・小田氏治は、何度城を奪われても取り返したことで知られます。

小田城

小田城は、今の茨城県つくば市にあった平城です。城跡は国の史跡として整備され、堀や土塁の跡を見ることができます。

土浦城

菅谷氏は、のちの土浦城の地を拠点としたとされます。小田城を失ったとき、氏治は菅谷氏の城に身を寄せたと伝えられます。

佐竹家との争い

小田氏は、北の佐竹家と長く争いました。佐竹家に城を奪われるたびに、菅谷氏らの家臣が氏治を支えて城を取り返そうとしました。

上杉謙信の小田攻め

永禄7年(1564年)、上杉謙信が小田城を攻め、氏治は城を明け渡しました。しかし、まもなく城を取り戻したとされます。

手這坂の戦い

永禄12年(1569年)、小田氏は手這坂の戦いで佐竹方に大敗し、小田城を失いました。

忠義の家臣

主家が苦しい時にも離れずに仕え続けた菅谷氏は、小田家の忠臣として語られています。

小田氏の終わり

天正18年(1590年)、秀吉の小田原攻めの際、小田氏は北条方とみなされ、領地を失いました。

菅谷氏のその後

小田氏の没落ののち、菅谷氏の一族の中には、ほかの大名に仕えた者もいたとされます。

小田氏治の粘り強さ

氏治は、戦に負けて城を失うことが多かった一方で、何度も城を取り戻したことから、「不死鳥」と呼ばれることもあります。

筑波山のふもと

小田城は、筑波山の南のふもとにありました。筑波山は、常陸の人々にとって昔から信仰の山でした。

常陸南部の国衆

常陸南部には、小田氏のほか、江戸崎の土岐氏や牛久の岡見氏などの国衆がいて、互いに結んだり争ったりしていました。

小田城跡

小田城跡は国の史跡として整えられ、堀や土塁、曲輪の跡が復元されています。

佐竹家の常陸統一

小田氏を退けた佐竹家は、のちに常陸のほぼ全体をまとめ、水戸城を本拠としました。

菅谷氏の土浦

菅谷氏がかかわった土浦は、のちに土浦城の城下町として栄え、霞ヶ浦の水運の町となりました。

評価

政貞は、何度も城を失った小田氏治のもとを離れず、父とともに戦い続けた忠臣と伝えられます。

このイラストについて

このイラストは、燃える城と兵を背に、槍を構える政貞を描いています。

前立ての付いた兜と、歯を食いしばった表情で、大軍を相手に戦い続けた猛将の気迫を表しました。

煙の上がる城と兵の列は、佐竹家との戦いで何度も攻防が繰り返された小田城の周りをイメージしています。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

小田家

常陸の小田城を本拠とした家で、鎌倉時代からの名門・八田氏の流れをくむ。小田氏治は佐竹氏や上杉謙信、北条氏との戦いで何度も小田城を失ったが、そのたびに取り戻した。

小田家の歴史と武将一覧を見る →

主家

家臣団

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