関ケ原の戦いには、ただひたすら敵将の首を狙い続けた凄まじい武者がいました。討ち取った首の口に笹の葉をくわえさせたことから「笹の才蔵」と呼ばれた男、可児才蔵です。番組でも戦場を駆けた最強武将の一人として取り上げられています。
宝蔵院流の槍を極めた武辺者
可児才蔵(吉長)は、宝蔵院流の槍術を修めた槍の達人でした。生涯に幾人もの主君に仕え、その武勇はどこへ行っても知られていました。戦場での働きこそが自分の値打ち。そう信じて槍一筋に生きた、戦国らしい武辺者です。
「笹の才蔵」の由来
合戦では多くの敵を討ち取りますが、次々と斬り込むため首を持ち運ぶ暇がありません。そこで才蔵は、討ち取った首の口に笹の葉をくわえさせ、あとで自分の戦功と分かるよう目印にしたと伝わります。この逸話から「笹の才蔵」の異名が生まれました。腰や背に笹を挿して戦ったともいわれます。
主君を渡り歩いた生涯
才蔵は明智光秀や柴田勝家、前田利家、佐々成政など、名だたる武将のもとを渡り歩きました。腕の立つ武者ほど、乱世では引く手あまただったのです。最後にたどり着いたのが、賤ヶ岳七本槍の筆頭福島正則の家でした。
関ケ原、首を狙い続けた一日
慶長五年(一六〇〇)の関ケ原本戦。才蔵は福島隊の一員として西軍に突撃し、次々と敵将を討ち取っていきました。討ち取った首はその数およそ十七ともいわれ、東軍でも屈指の武功をあげます。石田三成ら西軍が崩れていく戦場で、才蔵はただ首級を求めて槍を振るい続けたのです。
最強の槍が遺したもの
戦後も才蔵は福島家に仕え、武辺者として重んじられました。立身のための調略や政治とは無縁で、生涯を槍働き一筋に貫いた生き方は、徳川家康が天下を固めていく時代にあってどこか痛快です。派手な大名ではなくとも、こうした武者たちの奮戦が関ケ原という天下分け目を彩っていました。
各武将の生涯や関連する合戦・事件については、姉妹サイトでもくわしく解説しています。あわせてご覧ください。→ 戦国ヒストリー(姉妹サイト)

