島左近 ― 「三成に過ぎたるもの」と謳われた石田三成の懐刀

笹尾山の前衛で長槍を振るう島左近

関ケ原の戦いで西軍・石田三成の陣を支え、東軍を最も苦しめた武将がいます。島左近です。「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」とまで謳われた猛将の生涯を追います。番組でも、天下分け目を戦場で動かした武将の一人として注目されています。

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「三成に過ぎたるもの」と謳われた男

島左近(島清興)は、その武名の高さから、主君である石田三成よりも有名だったとさえいわれます。当時の人々は「三成にはもったいないほどの二つの宝がある。島の左近と、佐和山の城だ」と評しました。禄も家柄も並の武将が、なぜここまで語り継がれたのか。それは彼の戦場での働きが、まさに一騎当千だったからです。

筒井家を支えた大和の猛将

左近はもともと大和(現在の奈良県)の武将で、筒井順慶に仕えてその家を支えた重臣でした。合戦の采配に長け、筒井家の軍事を一身に担ったといわれます。しかし順慶が世を去り、跡を継いだ養子との折り合いが悪く、左近は筒井家を離れて浪人の身となりました。すでに名の知れた歴戦の将が、仕える主を失ったのです。

石田三成の破格の招き

その左近を口説き落としたのが石田三成でした。三成は自分の所領の半分ともいわれる破格の禄を提示し、左近を家臣に迎えたと伝わります。実務官僚として知られる三成が、なぜそこまでしたのか。天下が動く時代に、戦場を任せられる本物の武将がどうしても必要だったのでしょう。左近もまた、その心意気に応えました。

関ケ原、笹尾山の奮戦

慶長五年(一六〇〇)の関ケ原本戦。左近は三成の本陣が置かれた笹尾山の前衛に布陣し、押し寄せる東軍へ猛然と斬りかかりました。その攻めは凄まじく、東軍の諸隊を一時は押し返したと伝わります。数で勝る東軍が、左近の一隊になかなか手を焼いた。関ケ原の序盤は、西軍が優勢に見えるほどの戦いぶりでした。

黒田隊の銃弾と、その最期

しかし戦況を変えたのは鉄砲でした。黒田長政の隊が側面から銃撃を浴びせ、左近はこれに撃たれて深手を負ったとされます。やがて小早川秀秋の裏切りで西軍が総崩れとなるなか、左近は討死したと伝わります。ただし遺体は確認されず、戦場を落ち延びて生き延びたという説も根強く残ります。名将の最期は、いまも謎に包まれています。

敵に恐れられた名将の残像

関ケ原を戦った東軍の兵たちは、戦のあとも長く左近の掛かり声が耳に残り、夢にまで見たと語ったと伝わります。敵からこれほど恐れられた武将はそう多くありません。大谷吉継とともに、勝ち負けを超えて語り継がれる西軍の武人。島左近は、関 ケ原という舞台に鮮烈な武の記憶を刻んだ男でした。

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