関ケ原の戦いは、布陣だけを見れば西軍が圧倒的に有利でした。東軍を三方から包み込む「鶴翼の陣」に近い形だったのです。それでも西軍が敗れたのはなぜか。まずは誰がどこに陣取ったのかを、図で見てみましょう。
西軍 ― 東軍を包み込む有利な布陣
北西の笹尾山に石田三成が本陣を構え、その前衛に島左近が立ちました。南へ連なるように大谷吉継、宇喜多秀家、小西行長らが布陣し、東から進んでくる東軍を左手から押さえる形です。地形の上では、西軍が東軍を見下ろし、包み込む理想的な配置でした。
松尾山の小早川秀秋
戦場の南、松尾山の高みには小早川秀秋の大軍がありました。ここは東西両軍を見下ろす決定的な位置です。西軍として布陣していたはずの秀秋が本戦の途中で東軍へ寝返り、山を駆け下って大谷隊へ襲いかかったことで、西軍の一角は崩れ落ちました。松尾山城の争奪が、勝敗の鍵だったのです。
南宮山の毛利勢 ― 動かなかった大軍
南東の南宮山には、毛利秀元・吉川広家・長宗我部盛親ら約三万の西軍が徳川家康の背後を扼していました。この大軍が動けば東軍は挟撃されたはずですが、最前列の吉川広家が家康と通じて動かず、後続もそれに阻まれました。西軍最大の痛恨です(関ケ原の「もしも」)。
東軍 ― 家康と先鋒たち
東軍は東から進み、福島正則を先鋒に、黒田長政、細川忠興、井伊直政らが前線に並びました。家康自身は当初は桃配山、のちに陣場野へ本陣を進めます。数では西軍に劣らずとも、東軍は一枚岩でまとまっていました。
布陣は西軍有利だったのに
図を見れば、西軍がいかに有利な位置にいたかがわかります。それでも敗れたのは、松尾山の裏切りと、南宮山の傍観、そして島津のように動かなかった部隊が多かったからです。関ケ原は、布陣で決まる戦ではなく、「誰が実際に動いたか」で決まった戦でした。
各武将の生涯や関連する合戦・事件については、姉妹サイトでもくわしく解説しています。あわせてご覧ください。→ 戦国ヒストリー(姉妹サイト)

