天正16年(1588)4月15日、京都の聚楽第。後陽成天皇を迎えた行幸の2日目に、徳川家康、豊臣秀長、前田利家、長宗我部元親ら29人の武将が、一枚の文書に名を連ねました。これが「聚楽第行幸の起請文(きしょうもん)」です。
起請文とは、神仏に誓いを立て、破れば罰を受けると書いた約束の文書のことです。この記事では、聚楽第行幸の起請文について、何が書かれていたのか、宛先は誰だったのか、署名にどんな意味があったのかを、文書そのものに焦点をあてて解説します。署名した29人それぞれの人物とその後は、聚楽第行幸とは|起請文に署名した29人の武将と、その後の運命にまとめています。
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聚楽第行幸の起請文の早見表
| 日付 | 天正16年4月15日(行幸の2日目) |
|---|---|
| 場所 | 京都・聚楽第(後陽成天皇の御前) |
| 通数 | 2通。内大臣・織田信雄以下の上位6人の連署と、侍従クラス23人の連署 |
| 宛先 | 金吾殿=豊臣秀俊(のちの小早川秀秋)。秀吉の養子で、当時7歳 |
| 誓った内容 | 行幸に供奉できたことへの感謝、天皇と公家の所領を侵さないこと、関白秀吉の命令に背かないこと、の3か条 |
| 署名の形 | 官職+本姓+実名。たとえば「大納言源家康」「土佐侍従秦元親」 |
| 伝える史料 | 大村由己『聚楽行幸記』など |
そもそも起請文とはどんな文書か

起請文は、戦国時代の武将たちが約束を交わすときに使った、もっとも重い誓いの文書です。ふつう、次の二つの部分からできています。
- 前書(まえがき):守ると約束する内容を、箇条書きで書く部分
- 神文(しんもん)・罰文(ばつぶん):誓いを立てる神仏の名を並べ、「もしこの約束を破ったら、これらの神仏の罰を受ける」と書く部分
起請文は、寺社が配る「牛王宝印(ごおうほういん)」という護符の裏に書くのが習わしでした。とくに熊野三山の牛王宝印がよく使われ、熊野の牛王に書いた誓いを破ると、熊野の神の使いである烏が死に、誓いを破った者は罰を受けると信じられていました。戦国大名どうしの同盟や、家臣が主君に忠誠を誓うときにも、起請文が取り交わされています。
聚楽第行幸の起請文が特別なのは、この誓いが天皇の御前で、天皇の行幸という場を借りて行われたことでした。
何を誓ったのか ― 3か条の中身
聚楽第行幸の起請文の前書は、3か条からなります。要旨は次のとおりです。
- このたびの聚楽第行幸に供奉し、昇殿を許されたことを、ありがたく思うこと
- 禁裏(天皇)の御料所や、公家・門跡の所領を侵す者がいれば、それぞれが意見して止め、子々孫々までこれを守ること
- 関白(秀吉)の仰せには、どんなことでも決して背かないこと
一つ目と二つ目は、天皇と朝廷への忠誠です。戦国時代、天皇や公家の荘園は武士に押領され、朝廷は苦しい暮らしを強いられていました。その所領を守ると大名たちに誓わせることは、秀吉が朝廷の保護者であることを示す意味がありました。
そして要は三つ目です。朝廷を守るという誓いと一続きに、「関白の命に背かない」と誓わせることで、秀吉への服従を、天皇への忠誠と同じ重みをもつ約束にしたのです。秀吉はこのとき関白であり太政大臣でした。天皇から政治をまかされた立場の秀吉に従うことは、天皇に従うことと同じだ、という理屈です。
宛先は7歳の「金吾殿」 ― なぜ秀俊だったのか
起請文には、誓いを受け取る相手、つまり宛先があります。聚楽第行幸の起請文の宛先は、秀吉本人ではなく「金吾殿」でした。金吾とは、秀吉の正室・北政所の甥で、秀吉の養子となっていた豊臣秀俊、のちの小早川秀秋のことです。天正10年(1582)生まれの秀俊は、このとき数えで7歳。行幸の初日に侍従に任じられたばかりで、秀吉の後継ぎ候補として元服し、秀俊と名のったところでした。
秀吉にはまだ実子がなく、秀俊は秀吉の後継ぎの候補と見られていました。天下の大名たちが、その幼い後継者にあてて忠誠を誓う。起請文の宛先には、秀吉が自分の死後の豊臣家まで見すえていたことが表れています。秀俊は、秀吉の代わりに大名たちの誓いを受け取る役をつとめました。
しかし、この宛先はやがて意味を失います。翌年に実子の鶴松が生まれ、さらに文禄2年(1593)に秀頼が生まれると、秀俊は小早川家へ養子に出されました。そして12年後の関ヶ原の戦いで、秀秋は西軍から東軍へ寝返ることになります。
署名の書き方 ― 官職・本姓・実名
起請文の署名は、「官職+本姓+実名」という形で書かれています。本姓とは、源・平・藤原・橘といった、朝廷に対して名のる家の姓のことです。
| 署名 | 人物 | 本姓 |
|---|---|---|
| 内大臣平信雄 | 織田信雄 | 平 |
| 大納言源家康 | 徳川家康 | 源 |
| 権大納言豊臣秀長 | 豊臣秀長 | 豊臣 |
| 右近衛権少将豊臣利家 | 前田利家 | 豊臣 |
| 土佐侍従秦元親 | 長宗我部元親 | 秦 |
| 井伊侍従藤原直政 | 井伊直政 | 藤原 |
署名を見ると、29人のうち過半数が「豊臣」の姓で署名しています。秀吉は、天正14年(1586)に朝廷から賜った豊臣の姓を有力な大名たちにも与え、一族に準じる存在として政権に組みこんでいました。一方で、織田信雄・信包の「平」、家康の「源」、元親の「秦」、直政の「藤原」のように、もとの姓で署名した人もいます。豊臣の姓を名のらせる者と、名のらせない者を並べることで、豊臣の姓が他の姓よりも上に立つことを示した、という見方もあります。
侍従クラスの23人は、「土佐侍従」「丹後侍従」「岐阜侍従」のように、領地の地名と侍従の官職を組み合わせた呼び名で書かれています。大名を朝廷の官職で並べ、その序列を目に見える形にしたのも、この起請文の大きな役割でした。
2通に分かれていた理由
起請文は1通ではなく、2通に分かれていました。1通目は、内大臣の織田信雄、大納言の徳川家康・豊臣秀長、中納言の豊臣秀次、参議の宇喜多秀家、そして右近衛権少将の前田利家の6人の連署。2通目は、少将や侍従の官職をもつ23人の連署です。
1通目の5人は三位以上の公卿で、これに秀吉の信頼の厚い前田利家が加えられています。署名を2通に分けたのは、大名たちの格の違いを文書の上でも区別するためでした。1通目の6人は、のちの豊臣政権の最上位の顔ぶれにほぼ重なります。
謎の署名者 ― 「左衛門侍従義康」は誰か
23人の署名のなかには、正体がはっきりしない人物がいます。「左衛門侍従義康」です。
- 斯波義康とする説:尾張の守護だった名門・斯波義銀(のちの津川義近)の長男とする見方です。義銀は秀吉の御伽衆となり、大名並みの待遇を受けていました。前年の九州攻めで400騎を率いた「羽柴左衛門侍従」もこの義康とされます。ただ、このあと記録から姿を消すため、まもなく若くして亡くなったと考えられています
- 六角義郷(よしさと)とする説:近江の名門・六角氏の一族で、のちに系図で「義郷」と伝えられた人物の本名が義康だったとする見方です。六角家の系図に伝わる義郷の経歴と、豊臣政権下の「義康」の動きが合うことが根拠とされています
どちらの説も、足利一門や近江守護といった室町時代の名門の子を、秀吉が侍従に取り立てたという点では共通しています。滅びた旧勢力の名門を保護し、自分の政権に取りこむことは、秀吉がよく使った手法でした。また『聚楽行幸記』の写本によっては「御虎侍従」という幼名で書かれた人物がいて、「義康」と注記されているものもあり、署名者の顔ぶれには今も研究の余地が残されています。
秀吉はその後も起請文を求め続けた
聚楽第行幸の起請文は、秀吉が大名たちに求めた誓いのはじまりでした。その後も秀吉は、節目ごとに起請文を書かせています。
- 文禄4年(1595):甥の豊臣秀次を切腹に追いこんだ秀次事件のあと、諸大名に秀頼への忠誠を誓う起請文を出させました。家康・利家ら有力大名の連署で、大名どうしの勝手な婚姻を禁じる「御掟」も定められます
- 慶長3年(1598):死の床についた秀吉は、のちに五大老・五奉行と呼ばれる重臣たちに、幼い秀頼を守ると何度も起請文を書かせました
しかし、天皇の前で「関白の命に背かない」と誓った大名たちの多くは、秀吉の死後、家康のもとに集まります。家康自身も、大名どうしの婚姻を禁じた「御掟」を破って縁組を進めました。神仏に誓った起請文も、秀吉という一人の天下人の力がなくなると、大名たちを縛ることはできませんでした。
年表で見る聚楽第行幸の起請文
| 年月 | できごと |
|---|---|
| 天正13年(1585)7月 | 秀吉、関白になる |
| 天正14年(1586) | 秀吉、豊臣の姓を賜り、12月に太政大臣となる |
| 天正16年(1588)4月14日 | 後陽成天皇が聚楽第に行幸。秀俊が元服し侍従となる |
| 天正16年4月15日 | 29人の武将が、金吾殿(秀俊)あての起請文に署名 |
| 天正17年(1589)5月 | 秀吉の実子・鶴松が生まれる |
| 文禄2年(1593)8月 | 秀頼が生まれる。のちに秀俊は小早川家の養子に |
| 文禄4年(1595)7〜8月 | 秀次事件。諸大名が秀頼への忠誠の起請文を出し、「御掟」が定められる |
| 慶長3年(1598)8月 | 秀吉、重臣たちに秀頼を守る起請文を書かせて死去 |
| 慶長5年(1600)9月 | 関ヶ原の戦い。小早川秀秋が東軍に寝返る |
まとめ
聚楽第行幸の起請文は、天皇の御前で、朝廷への忠誠と関白秀吉への服従を一続きに誓わせた文書でした。宛先は7歳の後継者候補・秀俊、署名は官職と本姓で整然と並べられ、豊臣政権の序列がそのまま紙の上に描かれています。誓いの言葉は重くても、それを支えていたのは秀吉ひとりの力でした。宛先の秀俊が関ヶ原で東軍に寝返ったことは、この起請文のその後を象徴しているともいえそうです。



















































