あしかが よしあき
| 地域 | 近畿(山城・京都)/中国(備後・鞆) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 室町幕府(第15代将軍)→ 毛利氏の庇護 → 豊臣政権 |
| 大名家 | 足利将軍家 |
| 家紋 | 足利二つ引両 |
| 主武器 | 不詳 |
| 衣装・甲冑 | 直垂・烏帽子(のち僧衣) |
| 武将タイプ | 反信長包囲網を仕掛けた策謀の将軍 |
足利義昭(あしかが よしあき)は、室町幕府の第15代将軍で、最後の将軍である。天文6年(1537年)に京都で12代将軍・足利義晴の子として生まれ、兄は13代将軍の足利義輝。はじめは奈良の興福寺一乗院に入って覚慶と名乗った。永禄11年(1568年)、織田信長に支えられて上洛し、将軍となる。のちに信長と対立して天正元年(1573年)に京を追われ、備後の鞆(広島県福山市)で毛利氏の保護を受けながら再起を図った。晩年は豊臣秀吉のもとで出家して昌山と号し、1万石を与えられた。慶長2年(1597年)8月28日、大坂で61歳で亡くなった。大河ドラマ『豊臣兄弟!』では尾上右近が演じている。
僧から将軍へ
兄の義輝が永禄8年(1565年)に殺されると、一乗院にいた覚慶も監禁されたが、近江の和田惟政らの助けで脱出した。還俗して義秋、のち義昭と名乗り、越前の朝倉義景のもとに身を寄せる。
永禄11年(1568年)、義昭は信長に迎えられ、信長の軍とともに上洛して第15代将軍となった。このとき信長に従っていたのが、のちの秀吉・秀長の兄弟である。
信長との対立と京からの追放
しかし、将軍としての力を取り戻したい義昭と、天下の政治を自分の手で進めたい信長は、しだいに対立していく。信長は義昭の行動を縛る条書を突きつけ、義昭は各地の大名や本願寺に働きかけて信長を囲む動きを強めた。
天正元年(1573年)、義昭は山城の槇島城で兵を挙げたが信長に敗れ、京を追われた。これをもって室町幕府は事実上滅んだとされる。ただし義昭はその後も将軍の職を正式に失ったわけではなかった。
鞆での日々 ―「鞆幕府」
京を追われた義昭は、河内の若江城や紀伊の由良などを経て、天正4年(1576年)に備後の鞆に移り、毛利輝元の保護を受けた。鞆には義昭に従う幕臣が集まり、のちに「鞆幕府」と呼ばれることもある。義昭はここから毛利氏をはじめ各地の大名に信長と戦うよう呼びかけ続けた。
秀吉の時代 ― 出家と1万石
天正10年(1582年)に信長が本能寺の変で倒れると、義昭は京に戻ることを望み、秀吉にも働きかけた。秀吉は義昭の養子となって将軍職を得ようとしたが、義昭が断ったという話も伝わっている。
天正15年(1587年)ごろ京に戻った義昭は、天正16年(1588年)正月に将軍の職を辞して出家し、昌山道休と号した。秀吉からは1万石を与えられ、准三后という高い待遇を受けた。晩年は秀吉の話し相手を務めたともいわれ、文禄元年(1592年)の朝鮮出兵では肥前の名護屋まで出陣している。
慶長2年(1597年)8月28日、大坂で61歳の生涯を閉じた。信長に京を追われた最後の将軍は、信長の家臣だった秀吉のもとで、穏やかな晩年を送ったことになる。
足利義昭をめぐる人物
- 父:足利義晴(12代将軍)
- 兄:足利義輝(13代将軍)
- 擁立した人物:織田信長
- 保護した大名:朝倉義景/毛利輝元
- 晩年を過ごした政権:豊臣秀吉
ゆかりの地
- 旧二条城跡(京都市上京区):信長が義昭のために築いた将軍の御所
- 槇島城跡(京都府宇治市):天正元年に義昭が信長に対して兵を挙げた城
- 鞆の浦(広島県福山市):京を追われた義昭が毛利氏の保護を受けて過ごした港町
- 興福寺一乗院跡(奈良市):将軍になる前、覚慶として過ごした寺


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