一乗谷の戦い(刀根坂の戦い)をわかりやすく解説|朝倉義景はなぜ滅んだのか ― 嵐の夜の大嶽砦、刀根坂の追撃、小谷城の落城まで

一乗谷朝倉氏遺跡の唐門と堀にかかる橋

天正元年(1573)8月、越前の朝倉家と北近江の浅井家は、わずか半月ほどのあいだに相次いで滅びました。嵐の夜に信長が奪った一つの砦から、刀根坂の追撃戦、一乗谷の炎上、そして小谷城の落城へ。100年続いた朝倉家の城下町・一乗谷は、このとき灰になります。朝倉義景はなぜ滅んだのか。一乗谷の戦い(刀根坂の戦い)を、登場する武将と戦いの流れから、わかりやすく解説します。

先に答え

一乗谷の戦いは、織田信長が朝倉義景を滅ぼした戦いです。小谷城の浅井長政を救いに出てきた朝倉軍は、嵐の夜に前線の砦を信長に奪われて退きはじめ、国境の刀根坂で追いつかれて大敗しました。

義景は本拠の一乗谷に戻りましたが、家臣たちは次々に離れ、城下は織田軍に焼かれます。最後は一族の朝倉景鏡に裏切られて自害しました。信長はすぐに近江へ引き返し、小谷城も落ちて浅井家も滅びます。

一乗谷の戦い(刀根坂の戦い)の基本データ

いつ 天正元年(1573)8月12日〜20日。刀根坂の追撃戦は8月13日夜〜14日
どこ 近江の大嶽砦(小谷城の北)、越前と近江の国境の刀根坂(いまの福井県敦賀市)、越前の一乗谷(いまの福井市)、大野(いまの大野市)
対立 織田信長 × 朝倉義景(浅井長政の救援)
兵力 織田方 約30,000、朝倉方 約20,000(いずれも通説)
結果 刀根坂で朝倉軍が大敗。一乗谷は焼かれ、8月20日に義景が自害して朝倉家は滅亡
この後 信長は小谷城へ戻り、9月1日ごろ浅井長政が自害して浅井家も滅亡。お市と三人の娘は助け出される
刀根坂の山道で敗走する朝倉軍を追撃する織田軍のイメージ
刀根坂で、退く朝倉軍に追いすがる織田軍(イメージ)

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目次

一乗谷の戦いの年表

年月日 おもな出来事
元亀元年(1570)4月 信長の越前攻め。浅井長政が朝倉方について信長を挟み撃ちにしようとし、信長は金ヶ崎から退く
元亀元年(1570)6月 姉川の戦い。織田・徳川が浅井・朝倉を破るが、決着はつかない
元亀2年(1571)9月 浅井・朝倉に味方した延暦寺を信長が焼く(比叡山焼き討ち)
元亀3年(1572)〜 武田信玄が西へ動き、三方ヶ原で徳川を破る。義景は近江から越前へ兵を引き、信玄を怒らせる
天正元年(1573)4月 信玄が陣中で病死。信長包囲網が崩れはじめる
天正元年(1573)7月 信長が将軍・足利義昭を京から追う
天正元年(1573)8月8日 浅井方の山本山城の阿閉貞征が信長に寝返る。信長が岐阜から出陣し、小谷城を囲む
天正元年(1573)8月12日夜 暴風雨の中、信長がみずから大嶽砦を攻め取る。続いて丁野山の砦も落ちる
天正元年(1573)8月13日夜〜14日 朝倉軍が越前へ退きはじめ、刀根坂で信長に追いつかれて大敗
天正元年(1573)8月15日ごろ 義景が一乗谷に戻るが、家臣の離反が相次ぐ
天正元年(1573)8月18日ごろ 義景は大野へ移る。織田軍が一乗谷に入り、城下を焼き払う
天正元年(1573)8月20日 朝倉景鏡に囲まれ、義景が大野の賢松寺で自害(41歳)。朝倉家が滅ぶ
天正元年(1573)8月下旬〜9月1日ごろ 信長が小谷城を攻め、浅井久政・長政が自害。浅井家が滅ぶ

なぜ戦いが起きたのか ― 3年続いた浅井・朝倉との戦い

信長と朝倉家の争いは、元亀元年(1570)の越前攻めから始まりました。このとき、信長の妹・お市を妻にしていた浅井長政が朝倉方につき、信長は金ヶ崎から命からがら退きます。その後も姉川の戦い、比叡山の焼き討ちと戦いは続きましたが、浅井・朝倉は小谷城と越前を守りきり、3年にわたって信長を悩ませました。

潮目が変わったのは天正元年(1573)です。4月に武田信玄が亡くなり、7月には信長が将軍・足利義昭を京から追いました。信長を囲んでいた大名や勢力のつながりがほどけ、浅井・朝倉は孤立していきます。そして8月、浅井方の重要な城だった山本山城の阿閉貞征が信長に寝返ったことで、信長は一気に小谷城を囲む好機をつかみました。

家 当主 天正元年(1573)8月の状況
織田家 織田信長 武田信玄の死と将軍追放で手があき、全力を浅井・朝倉に向けられるようになる
浅井家 浅井長政(父・久政) 山本山城の寝返りで小谷城が丸裸に。朝倉の援軍だけが頼り
朝倉家 朝倉義景 浅井を見捨てれば次は越前が狙われる。重臣の中には出陣に反対する者もいたとされるが、義景自ら2万の兵で近江へ出る

兵力くらべ ― 織田3万対朝倉2万

一乗谷の戦い(刀根坂の戦い)の兵力(通説)

織田方(織田信長)約30,000
朝倉方(朝倉義景)約20,000
刀根坂で討たれた朝倉方3,000余

兵の数ではそれほど大きな差はありません。勝負を分けたのは数より、信長の決断の速さと、退きはじめた朝倉軍の崩れ方でした。兵力は通説、刀根坂の討ち取り数は『信長公記』による数字です。

一乗谷の戦いに登場した主な武将(織田方)

人物 立場 この戦いでの動き
織田信長 織田家の当主(40歳) 嵐の夜にみずから大嶽砦を攻め取り、朝倉軍が退くと読んで自ら先頭に立って追撃する
佐久間信盛 織田家の宿老 先手の大将の一人。追撃に出遅れて信長に叱られ、言い返したことが、7年後の追放状でとがめられる
柴田勝家 織田家の宿老 先手の一人として追撃に加わる。のちに越前を任され、北ノ庄城主となる
羽柴秀吉 小谷城攻めの最前線を担う将 朝倉追撃に加わったのち、小谷城の京極丸を攻め取り、浅井家を滅ぼすきっかけをつくる。戦後、浅井の旧領を与えられる
滝川一益 織田家の重臣 先手の一人として朝倉追撃に加わる
丹羽長秀 織田家の重臣 先手の一人として朝倉追撃に加わる

一乗谷の戦いに登場した主な武将(朝倉方・浅井方)

人物 立場 この戦いでの動き
朝倉義景 朝倉家の当主(41歳) 2万の兵で浅井の救援に出るが、大嶽砦を失って退く。刀根坂で大敗し、一乗谷から大野へ逃れて自害
朝倉景鏡 義景のいとこ。一族の重臣 大野へ逃れるよう義景にすすめ、そこで義景を囲んで自害に追い込む。戦後は信長に降り、土橋信鏡と名を改める
山崎吉家 朝倉軍の主力の将 刀根坂で殿をつとめるなどして奮戦し、討ち死にしたとされる
河合吉統 義景の奉行人 刀根坂の戦いで討ち死にしたとされる
斎藤龍興 もと美濃の国主。信長に国を追われ朝倉家に身を寄せる 朝倉軍に加わり、刀根坂で討ち死にしたとされる(26歳)。信長の古い宿敵の最期だった
前波吉継 朝倉家の重臣 これより前の元亀3年(1572)に信長へ寝返っていた。朝倉滅亡後、越前の守護代を任される
浅井長政 小谷城主。信長の妹婿 朝倉の援軍を待つが、朝倉は滅び、自身も小谷城で自害(29歳)
浅井久政 長政の父 小谷城の小丸にこもり、京極丸を秀吉に奪われて自害

一乗谷の戦いの流れ ― 嵐の夜から朝倉滅亡までの9日間

小谷城・大嶽砦・刀根坂・敦賀・一乗谷・大野の位置関係と、朝倉軍の退路を示した位置関係図
小谷城から刀根坂、一乗谷、大野までの位置関係。朝倉軍は近江から越前へ、山を越えて退いた(イメージ図)

① 8月12日夜 ― 嵐の中、信長みずから大嶽砦を奪う

暴風雨の夜、山の上の砦に攻め上る織田軍のイメージ
暴風雨の夜、大嶽砦に攻め上る信長の軍勢(イメージ)

小谷城の北の山には、朝倉軍が守る大嶽砦がありました。小谷城と朝倉の本隊をつなぐ大事な拠点です。8月12日の夜、近江は激しい風雨に見舞われます。信長はこの嵐を好機と見て、みずから馬廻りを率いて大嶽砦に攻め上りました。まさか嵐の夜に攻めてくるとは思っていなかった守備兵は降参し、砦は一夜で信長の手に落ちます。続いて近くの丁野山の砦も落ちました。

信長は降参した兵をわざと義景の本陣へ帰らせたとされます。前線の砦が落ちたことを朝倉軍全体に知らせ、退くように仕向けたのです。

② 8月13日 ― 「朝倉は今夜退く」と読んだ信長

信長は、砦を失った朝倉軍が今夜のうちに越前へ退くと読みました。そこで佐久間信盛・柴田勝家・滝川一益・丹羽長秀・羽柴秀吉らの先手の大将たちに「朝倉が退いたら、すぐに追え」と何度も念を押したといいます。

読みは当たり、13日の夜、朝倉軍は陣を払って退きはじめました。ところが先手の大将たちは出遅れ、真っ先に追いかけたのは信長自身でした。あとから追いついた大将たちを信長は激しく叱ります。このとき佐久間信盛が「そうはおっしゃいますが、我々ほどの家来はなかなか持てますまい」と口答えしたと伝わり、7年後に信盛を追放したときの書状で、信長はこのことを持ち出しています。

③ 8月13日夜〜14日 ― 刀根坂の追撃戦

朝倉軍は、近江から越前の敦賀へ抜ける山道を急ぎました。信長はこれに追いすがり、国境の刀根坂のあたりで朝倉軍に追いつきます。暗い山道で、退くことだけを考えていた軍勢は、後ろから襲われるともろく崩れました。

朝倉方は山崎吉家・河合吉統など名のある将を次々に失い、信長に国を追われて朝倉家に身を寄せていた元美濃国主・斎藤龍興も、ここで討たれたとされます。『信長公記』は、討ち取った朝倉方を3,000余と記しています。信長は敦賀まで追い、朝倉軍は散り散りになって越前へ逃げ帰りました。

④ 8月15日〜18日 ― 一乗谷へ戻った義景と、燃える城下

一乗谷朝倉氏遺跡の石碑
一乗谷朝倉氏遺跡の碑(筆者撮影)

わずかな供まわりと一乗谷に戻った義景を待っていたのは、家臣たちの離反でした。刀根坂の大敗を知った重臣たちの多くは、義景のもとに集まりませんでした。一族の朝倉景鏡は、一乗谷を捨てて自分の領地である大野へ移るようすすめます。義景はこれに従い、一乗谷を離れました。

信長の軍は越前に入り、一乗谷に火を放ちます。100年にわたって朝倉家の都として栄え、京の公家や文化人も訪れた城下町は、三日三晩燃え続けたと伝わります。

一乗谷朝倉氏遺跡の唐門と堀にかかる橋
一乗谷の朝倉館跡の唐門(筆者撮影)。門は江戸時代に建てられたものとされる

⑤ 8月20日 ― 大野での最期

大野の賢松寺に入った義景を、案内してきたはずの朝倉景鏡の兵が取り囲みました。景鏡はすでに信長に通じていたのです。逃げ場を失った義景は、8月20日に自害しました。41歳でした。義景の母や妻、幼い子も捕らえられて命を落とし、朝倉家はここに滅びます。

⑥ 8月下旬〜9月1日ごろ ― 小谷城の落城

小谷城跡絵図の看板
小谷城跡の絵図(筆者撮影)。尾根の上に曲輪が一列に並ぶ山城だった

朝倉を滅ぼした信長は、すぐに近江へ引き返し、小谷城を攻めました。秀吉が城の中ほどにある京極丸を攻め取って、本丸の長政と小丸の久政を切り離します。久政が自害し、続いて長政も自害しました(日付には諸説あります)。長政の妻・お市と、茶々・初・江の三人の娘は城を出て信長のもとへ送られ、命を助けられました。

朝倉義景はなぜ滅んだのか

理由 内容
援軍の出しどころを逃し続けた 信玄が西へ動いた元亀3年(1572)、義景は近江から兵を引いてしまい、信長を挟み撃ちにする好機を逃した。信長に手があいてから出陣することになった
退き方に失敗した 大嶽砦を失ったあと、まとまって退く備えができていなかった。追撃を受けて軍がばらばらになった
家臣の心が離れていた 前波吉継のように先に信長へ寝返った重臣もおり、刀根坂の大敗のあとは一乗谷に兵が集まらなかった
最後は一族に裏切られた 頼った一族の景鏡がすでに信長に通じていた

義景は和歌や茶の湯を好み、一乗谷を京にも劣らない文化の町にした当主でした。その一方で、戦の決断は慎重すぎ、家臣をまとめきれなかったともいわれます。刀根坂の一夜の崩れは、それまで積み重なってきた弱さが一気に表に出た結果だったのかもしれません。

一乗谷の戦いのその後

人物・場所 その後
朝倉景鏡 信長に降り、土橋信鏡と名を改めて大野を治める。しかし翌年、越前で一向一揆が起こると攻められて討ち死に
前波吉継 桂田長俊と名を改め、越前の守護代となる。翌年、富田長繁らに攻められて討たれ、越前は一向一揆の国になる
柴田勝家 天正3年(1575)に越前の一向一揆を平らげたあと、越前を任されて北ノ庄城を築く
羽柴秀吉 浅井の旧領・北近江を与えられ、今浜を長浜と改めて城を築く。はじめて一国の城主となった
お市と三人の娘 織田家に引き取られる。お市はのちに柴田勝家と再婚し、茶々は淀殿として秀吉の側室となる
一乗谷 城下町は焼けたまま田畑の下に埋もれ、昭和になって発掘された。いまは国の特別史跡「一乗谷朝倉氏遺跡」として、町並みの一部が復原されている
一乗谷朝倉氏遺跡の復原町並みの門
一乗谷の復原された武家屋敷の門(筆者撮影)

筆者のひとこと

一乗谷は、いつか行きたいと思っていた場所でした。狭い谷あいに町が広がり、整備された区画割りもよく残っていて、風情があります。やっと来られた、という実感でした。

入口には大きな石を使った石垣が両側にあり、ここで谷への出入りを見張っていたのでしょう。谷に沿って川も流れていて、いっそう趣がありました。身分の軽い人の家が手前に、奥へ行くほど重臣の屋敷になっていくような町のつくりだったのでしょうか。

城跡というより、館と城下町の跡なのだと感じました。朝倉氏の館そのものは復元されていないので、当時の姿を思い描くのは少し難しかったです。今後、館の復元などが進むとうれしいですね。

まとめ

一乗谷の戦いは、嵐の夜の大嶽砦から始まりました。砦を失った朝倉軍は越前へ退き、刀根坂で信長に追いつかれて大敗します。義景は一乗谷に戻ったものの家臣は集まらず、城下は焼かれ、最後は一族の景鏡に裏切られて自害しました。信長はその足で小谷城を落とし、3年にわたって苦しめられた浅井・朝倉を、わずか1か月足らずで滅ぼしたのです。

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