上洛をめざした戦国大名一覧|上杉謙信・武田信玄・今川義元・三好長慶…なぜ京都をめざしたのか、果たした者と果たせなかった者【豊臣兄弟!第41回】

峠の上から夕暮れの京都の町を見下ろす戦国大名の軍勢のイメージイラスト

大河ドラマ『豊臣兄弟!』第41回「家康の野望」では、徳川家康がついに上洛し、大坂城で豊臣秀吉に臣従します。戦国時代には、多くの大名が「上洛」、つまり京都へのぼることをめざしました。上杉謙信、武田信玄、今川義元、三好長慶……。この記事では、上洛をめざした戦国大名を一覧にして、だれが何のために京へ向かい、その結果どうなったのかを整理します。

先に答え

「上洛」とは、地方から京都へのぼることです。京都には天皇と室町幕府の将軍がいたため、戦国大名にとって上洛は、将軍や天皇から地位や役職を認めてもらい、自分の力を天下に示すための大きな目標でした。

上洛を果たしたのは、大内義興・三好長慶・上杉謙信・織田信長などです。一方、武田信玄は西へ兵を進めた途中で病死し、今川義元は桶狭間で討たれました(ただし、二人が本当に上洛をめざしていたかには異論があります)。

そして天正14年(1586)の家康の上洛は、自分の力を示すためではなく、秀吉に頭を下げるためのものでした。上洛の意味が、戦国の終わりに大きく変わったのです。

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目次

上洛をめざした戦国大名たち

上洛をめざした戦国大名一覧

大名年何のために結果
大内義興永正5年(1508)追放された将軍・足利義稙を奉じて京へ義稙を将軍に戻し、約10年間京にとどまって政治を動かした
三好長慶天文18年(1549)ごろから主君・細川晴元を破り、京の実権をにぎる将軍を京から追い、「三好政権」と呼ばれる畿内の支配を築いた
上杉謙信天文22年(1553)・永禄2年(1559)天皇と将軍・足利義輝に会い、役職を認めてもらう関東管領の就任を認められ、関東へ出兵する大義名分を得た
今川義元永禄3年(1560)上洛のためと言われてきたが、尾張を取るためという説が有力桶狭間の戦いで織田信長に討たれた
織田信長永禄11年(1568)足利義昭を奉じて京へ義昭を15代将軍にし、天下統一への足がかりを得た
武田信玄元亀3年(1572)西へ兵を進める(西上作戦)。上洛が目的だったかは諸説ある三方ヶ原で家康を破ったが、翌年、陣中で病死した
徳川家康天正14年(1586)秀吉の求めに応じ、大坂城で臣従する正三位権中納言となり、豊臣政権の大名の一人となった

そもそも「上洛」とは何か

「洛」とは都のことで、古代中国の都・洛陽にちなんで、京都を「洛」と呼びました。「上洛」は、その京都へのぼることです。京都には天皇の御所があり、室町時代には幕府の将軍もいました。

戦国時代になると、将軍の力は弱まり、各地の大名が自分の力で国を治めるようになります。それでも、大名たちは上洛をめざしました。上洛にどんな意味があったのかは、姉妹サイトの戦国の「上洛」とは何をすることだったのか(日本の歴史ガイド)でくわしく解説しています。

なぜ戦国大名は京都をめざしたのか

理由は大きく三つあります。一つ目は、将軍や天皇から地位や役職をもらうためです。守護や管領といった役職、朝廷の官位は、大名が国を治める正当な理由になりました。上杉謙信が関東管領に就いたのも、上洛して将軍に認められたからです。

二つ目は、京都を押さえることで、天下に自分の力を示すためです。将軍を自分の手で立てたり、京の政治を動かしたりできれば、ほかの大名に命令する立場に立てました。大内義興や織田信長は、将軍を奉じて上洛することで、この立場を手に入れています。

三つ目は、京都が人・もの・お金の集まる、日本でいちばん豊かな町だったことです。堺や京の商人と結びつくことは、大名の力を大きくしました。

上洛を果たせなかった大名たち ― 今川義元と武田信玄

今川義元は、永禄3年(1560)に大軍を率いて尾張へ攻めこみ、桶狭間の戦いで信長に討たれました。かつては「上洛の途中で討たれた」と言われてきましたが、最近では、尾張を自分の領地にするための戦いだったとする見方が有力です。

桶狭間の戦いのイラスト
桶狭間の戦い(イメージ)

武田信玄は、元亀3年(1572)に甲斐から西へ兵を進め、三方ヶ原の戦いで家康を破りました。しかし翌年、陣中で病にたおれ、甲斐へ帰る途中で亡くなります。この西上作戦も、京へのぼるためだったのか、信長と戦うためだったのか、はっきりしたことはわかっていません。

三方ヶ原の戦いのイラスト
三方ヶ原の戦い(イメージ)

上洛を果たした大名たち ― 三好長慶と上杉謙信

三好長慶は、もともと細川家の家臣でしたが、天文18年(1549)に主君の細川晴元を破り、将軍・足利義輝を京から追い出して、京の実権をにぎりました。信長より前に畿内を支配した「最初の天下人」とも呼ばれます。

上杉謙信は、二度上洛しています。永禄2年(1559)の二度目の上洛では、5000の兵を率いて京に入り、正親町天皇と将軍・足利義輝に会いました。このとき関東管領に就くことを認められ、のちに北条家と戦う大義名分を得ています。謙信は信玄と川中島で戦いながらも、京との結びつきを大切にした大名でした。

川中島の戦いのイラスト
川中島の戦い(イメージ)

家康の上洛は、何がちがったのか

天正14年(1586)10月、家康は上洛し、大坂城で秀吉に会って臣従しました。それまでの上洛は、大名が自分の力を示し、将軍や天皇から地位を得るためのものでした。しかし家康の上洛は、すでに天下を手にしていた秀吉に頭を下げるためのものだったのです。

秀吉は、母の大政所を人質として岡崎へ送ってまで、家康の上洛を求めました。くわしくは大政所の人質事件と家康の上洛、大政所の岡崎行きは本当に「見舞い」だったのかもあわせてどうぞ。秀吉に臣従した大名たちがいつ上洛したかは、姉妹サイトの秀吉に臣従した大名はいつ上洛したのか(日本の歴史ガイド)にまとめられています。

【考察】大名たちは「将軍」という看板を利用した

ここからは筆者の考えです。戦国時代の将軍は、もはや自分の軍勢で国を治める力を持っていませんでした。それでも、「将軍」という名前の重み、いわば知名度やブランドは、全国の大名のあいだで根強く残っていたと考えます。

だからこそ、力のある大名ほど上洛をめざしました。大内義興は追われた将軍を京に戻し、上杉謙信は将軍から関東管領の就任を認められ、織田信長は足利義昭を将軍に立てました。三好長慶でさえ、将軍を追い出したあとも、最後には将軍と和睦しています。大名たちは将軍に仕えるためというより、「将軍に認められた」「将軍を支えている」という看板を手に入れ、自分の戦いや支配に大義名分を与えるために京をめざしたのではないでしょうか。

その看板を最後まで利用したのが、信長でした。しかし信長が義昭を京から追い、室町幕府が終わると、看板の中身は将軍から天下人そのものへと移ります。秀吉は将軍にはならず、関白として天皇の権威を使いました。そして家康の上洛は、もう将軍に会うためではなく、天下人・秀吉に頭を下げるためのものでした。上洛の意味が「将軍の看板を借りに行く」から「天下人に従うしるし」に変わったことを、もっともよく表した出来事だったといえるでしょう。

皮肉なことに、その家康がのちに征夷大将軍となり、江戸に幕府を開きます。いちど力を失った「将軍」という看板は、家康の手で、ふたたび天下を治める本物の力を取りもどしたのです。

まとめ

上洛とは京都へのぼることで、戦国大名にとっては将軍や天皇から地位を得て、天下に力を示すための大きな目標でした。大内義興・三好長慶・上杉謙信・織田信長は上洛を果たし、今川義元と武田信玄はその途中で倒れたと言われてきました。そして家康の上洛は、秀吉に臣従するためのものでした。大河ドラマ『豊臣兄弟!』第41回で描かれる家康の上洛は、戦国の「上洛」の意味が変わった瞬間でもあるのです。

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