あゆがせ さねみつ
| 地域 | 関東 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 伊王野氏家臣(那須衆) |
| 大名家 | 下野那須 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 弓 |
| 衣装・甲冑 | 実戦具足 |
| 武将タイプ | 勇猛・那須の槍 |
鮎ヶ瀬実光は下野の那須七騎の一つ伊王野氏に仕えたと伝わる武士で、通称は弥五郎。天文18年(1549)の喜連川五月女坂の戦いで、宇都宮氏の当主・尚綱を矢で射止めたとされる。事績は主に那須方の軍記物に拠る。
伊王野氏の家臣
鮎ヶ瀬実光は戦国時代の下野(栃木県)の武士で、通称は弥五郎。生没年は不明。
下野北部の那須氏には、那須七騎と呼ばれる有力な一族・家臣があった。大田原・大関・福原・芦野・伊王野・千本・岡本の各氏を指すとされる。実光はその一つ、伊王野氏(伊王野資宗)の家臣と伝わる。
那須氏と宇都宮氏はともに下野の有力な領主で、境を接して長く争った。
喜連川五月女坂の戦い
天文18年(1549)、宇都宮尚綱は古河公方足利晴氏の命を受け、烏山城の那須高資と戦った。戦場は喜連川(栃木県さくら市)の五月女坂(早乙女坂)である。五月女坂は、下野北部の塩谷・那須と中央部を結ぶ要地だった。
この戦いで尚綱は討死した。9月20日のことで、38歳だった。当主を失った宇都宮氏はしばらく混乱し、宇都宮城は一時、重臣の壬生綱房に押さえられた。
那須方の軍記物『那須記』などは、奇襲で乱れた味方を立て直そうと前に出た尚綱を、実光が一矢で射抜いたと記す。さくら市の観光案内も、尚綱が喜連川方の助っ人・鮎ヶ瀬弥五郎に射殺されたと紹介している。この功で豊後守を名乗ったとも伝わる。
弥五郎坂の伝承
伝承では、実光は尚綱の供養のため永楽銭10貫を投じて、五月女坂に碑を建てた。このため坂は「十貫弥五郎坂」、あるいは「弥五郎坂」と呼ばれるようになったという。現地には尚綱のものとされる供養塔が建っている。
ゆかりの地
- 五月女坂古戦場(栃木県さくら市):弥五郎坂とも呼ばれ、宇都宮尚綱の供養塔とされる塔が建つ
参考にした資料
伊王野氏
伊王野氏は、那須家の家臣団「那須七騎」の一つで、下野の伊王野(今の那須町)を本拠としました。
那須七騎
那須家の家臣のうち、大田原・大関・福原・芦野・伊王野・千本・岡本の七家は「那須七騎」と呼ばれ、那須家の軍の中心を担いました。
那須家と宇都宮家
那須家と宇都宮家は、下野の北部と中部で境を接し、長く争いました。喜連川のあたりは、その境目にあたる土地でした。
喜連川
喜連川は、今の栃木県さくら市の地名です。のちに足利家の流れをくむ喜連川家が治め、江戸時代には奥州街道の宿場町として栄えました。
坂に残る名
実光の名は、戦いの伝承とともに地元の坂の名などに残っていると伝えられます。
評価
実光は、那須家と宇都宮家の争いの中で戦った伊王野氏の家臣と伝えられます。その名は、喜連川の戦いの伝承とともに語られています。
このイラストについて
このイラストは、山あいの戦場で、兜をかぶって立つ実光を描いています。
太い眉とひげをたくわえた顔で、戦場で名を上げたと伝わる武者の力強さを表しました。
暗い雲と山々は、那須家と宇都宮家が争った下野北部の山あいをイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
下野北部の那須地方を本拠とした家で、源平合戦の那須与一の子孫と伝えられる。戦国時代には宇都宮氏や佐竹氏、北条氏と争いながら勢力を保った。
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