溝尾茂朝 | 光秀の最期を看取ったとされる古参の重臣

溝尾茂朝

みぞお しげとも

地域近畿
所属勢力・属性明智家臣
大名家明智
家紋―
主武器太刀・行政書状
衣装・甲冑塗具足
武将タイプ忠義・介錯

明智光秀の古参家臣で、通称は庄兵衛。越前・丹波の統治に関わった三沢秀次と同一人物とする説がある。山崎の戦いの後、小栗栖で深手を負った光秀を介錯して首を隠し、その後近江の坂本城で自害したと軍記物などは伝える。

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光秀の古参家臣

溝尾茂朝は明智光秀の家臣である。通称は庄兵衛。勝兵衛・小兵衛などとも書かれるが、同じ音の書き分けとされる。永禄11年(1568年)には光秀の家臣として名が見え、光秀の最も古い家臣の一人である。光秀から明智の姓を与えられ、明智茂朝とも称したとされる。

諱の「茂朝」は後世の系図などによるもので、確かな史料での表記ははっきりしない。光秀の家臣で越前・丹波の行政に関わった三沢秀次(昌兵衛)と同一人物とする説がある。

越前・丹波での活動

天正元年(1573年)、織田信長は越前の朝倉氏を滅ぼした。このとき越前北庄(福井市)には、羽柴秀吉・滝川一益・明智光秀それぞれの家臣が奉行として置かれた。光秀方から出たのが三沢秀次であり、これを茂朝と同一人物とみる説である。

天正3年(1575年)から、光秀は信長の命で丹波の攻略を進めた。攻略は数年に及び、天正7年(1579年)にほぼ平定された。茂朝もこれに従ったとされる。丹波平定後の統治に関わる文書に見える「三沢秀儀」も、同一人物と推測されている。

本能寺の変と最期

天正10年(1582年)6月2日、光秀は本能寺で信長を討った。茂朝は、変の直前に光秀が重臣に決意を打ち明けた場にいた一人とされる。同月13日、光秀は山城国山崎(京都府大山崎町)で羽柴秀吉と戦って敗れた。

光秀は近江の居城・坂本城へ向かう途中、山城国小栗栖(京都市伏見区)で落ち武者狩りに遭い、深手を負って自刃したとされる。軍記物などでは、このとき茂朝が介錯し、光秀の首を隠したと伝える。その後、茂朝は坂本城に入って自害したという。介錯の場面は後世の軍記による記述で、細部には諸説がある。

茂朝は、明智秀満・斎藤利三らとともに「明智五宿老」に数えられることがある。これは後世の呼び方である。

ゆかりの地

  • 谷性寺(京都府亀岡市):光秀の首塚がある寺。光秀は家臣に、首をこの寺のそばに埋めるよう託していたと伝わる。

参考にした資料

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