天正14年(1586)8月、紀伊半島の奥深く、熊野の北山(いまの和歌山県北山村・三重県熊野市のあたり)で、土地の地侍たちが豊臣の支配に反発して兵を挙げました。北山一揆です。紀伊を治めていた豊臣秀長は自ら兵を率いて熊野の山に入りましたが、険しい山と早い雪に阻まれ、鎮圧は思うように進みませんでした。大河ドラマ『豊臣兄弟!』第41回でも描かれるとされる秀長の熊野攻めを、なぜ熊野が大事だったのか、どのように戦いが進んだのかから、わかりやすく解説します。
北山一揆は、天正13年(1585)の紀州攻めのあと紀伊を任された豊臣秀長の支配に対して、奥熊野・北山の地侍(熊野牢人衆)が起こした一揆です。検地など、新しい支配のやり方への反発が背景にあったと考えられています。
秀長は天正14年8月に自ら出陣しましたが、山深い熊野での戦いは苦しく、重臣の部隊が全滅するほどの損害も出ました。9月下旬にはほぼ一揆を抑えたものの、10月には大雪で兵を引きます。残った一揆勢の討伐は天正17年(1589)まで続き、その拠点として藤堂高虎が赤木城を築きました。熊野の山は、大坂城や大仏殿をつくるための材木の宝庫でもありました。
| いつ | 天正14年(1586)8月に一揆が起こり、秀長が出陣。10月に大雪で引き揚げ。残党の討伐は天正16年(1588)から17年(1589)まで続く |
|---|---|
| どこ | 紀伊国の奥熊野・北山郷(いまの和歌山県北山村、三重県熊野市紀和町のあたり) |
| 対立 | 豊臣秀長(紀伊・和泉・大和の大名)× 奥熊野の地侍たち(山本氏ら「熊野牢人衆」) |
| 兵力 | 両軍とも、はっきりした数は伝わっていない |
| 結果 | 秀長方が9月下旬にほぼ鎮圧。ただし残党は山にこもり、完全に鎮まるまで約3年かかる |
| この後 | 藤堂高虎が赤木城を築いて北山を押さえる。熊野の材木は豊臣家の大きな財源となるが、天正17年には材木をめぐる吉川平介事件も起きる |

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北山一揆の年表
| 年月日 | おもな出来事 |
|---|---|
| 天正13年(1585)3〜4月 | 秀吉の紀州攻め。根来寺・雑賀衆が降り、太田城が水攻めで落ちる。新宮の堀内氏善ら熊野の国衆も秀吉に従う |
| 天正13年 | 紀伊・和泉が秀長に与えられ、閏8月には大和も加わる。秀長は大和郡山城を本拠とし、紀伊には藤堂高虎を普請奉行として和歌山城を築く。紀伊でも検地が進められる |
| 天正14年(1586) | 秀吉が京都の東山に大仏殿(方広寺)を建てはじめる。巨大な建物に使う材木が、各地から集められる |
| 天正14年8月 | 奥熊野・北山で、山本氏ら熊野牢人衆が地侍・百姓とともに兵を挙げる(北山一揆) |
| 天正14年8月下旬 | はじめは地元の家臣に鎮圧を命じていた秀長が、自ら出陣する |
| 天正14年9月 | 山中で激しい戦いが続く。9月14日には重臣の伊藤掃部助の部隊が全滅したと伝わる。9月23日ごろ、一揆勢をほぼ抑える |
| 天正14年10月 | 残党狩りを続けるが、大雪のため兵を引き揚げる |
| 天正15年(1587) | 秀長は九州征伐に出陣。熊野の残党の処分は先送りになる |
| 天正16年(1588)9月〜17年5月 | 北山の一揆勢に対して、あらためて徹底した討伐が行われる |
| 天正17年(1589)ごろ | 藤堂高虎が北山を押さえる拠点として赤木城を築く |
| 天正17年(1589) | 熊野の材木を扱っていた山奉行の吉川平介が、材木の代金をめぐる不正で秀吉に処刑される(吉川平介事件) |
| 天正19年(1591)1月 | 秀長が大和郡山城で亡くなる |
| 慶長19年(1614)12月 | 大坂冬の陣のすきをついて、北山の地侍たちがふたたび兵を挙げる(慶長の北山一揆)。新宮の浅野家に鎮圧される |
なぜ一揆が起きたのか ― 熊野の山と、新しい支配
天正13年(1585)、秀吉は紀伊に大軍を送り、長く独立を保ってきた根来寺や雑賀衆を降しました(紀州攻め、太田城の水攻めなど)。紀伊は弟の秀長に与えられ、秀長は大和・紀伊・和泉をあわせ持つ大大名となります。紀伊の拠点として築かれたのが和歌山城で、その普請を任されたのが、のちに築城の名人として知られる藤堂高虎でした。

紀伊半島の南部に広がる熊野は、杉や檜の良い材木がとれる土地です。ちょうどこのころ、秀吉は大坂城の普請に続いて、京都に大仏殿(方広寺)を建てはじめていました。巨大な建物には、太くまっすぐな木がいくらあっても足りません。熊野の山は、豊臣家にとって宝の山でした。秀長は山奉行の吉川平介らに熊野の山林を管理させ、材木を伐り出して熊野川を筏で下ろし、船で大坂へ運ばせました。
しかし熊野の奥地、とくに北山郷は、山また山の険しい土地で、昔から地元の地侍たちが自分たちの力で暮らしてきたところです。そこへ新しい領主の検地や、山の木を自由に使えなくなる決まりが入ってきます。紀州攻めで行き場を失った武士たちも、山に身を寄せていました。こうした不満が重なって、天正14年8月、北山の地侍たちが立ち上がったと考えられています。一揆の原因をはっきり書いた記録は少なく、検地への反発とする見方が一般的ですが、確かなことはわかっていません。
| 立場 | 熊野の山をどう見ていたか |
|---|---|
| 豊臣秀長・秀吉 | 大坂城や大仏殿に使う材木の宝庫。きちんと支配して、木を伐り出したい |
| 北山の地侍(熊野牢人衆) | 先祖からの土地と山。外から来た領主の検地や決まりには従いたくない |
| 新宮の堀内氏善 | 熊野の海側の国衆。秀吉に降って所領を認められ、豊臣方として熊野の押さえとなる |
数字で見る北山一揆
天正の北山一揆では、一揆勢・秀長方ともにはっきりした兵の数は伝わっていません。それでも、天下人の弟が自ら出陣し、重臣の部隊を失いながら1か月かけてようやく抑えたことから、決して小さな一揆ではなかったことがわかります。
北山一揆に登場した主な人物
| 人物 | 立場 | 北山一揆での動き |
|---|---|---|
| 豊臣秀長 | 秀吉の弟。大和・紀伊・和泉の大名 | はじめは家臣に鎮圧を任せていたが、自ら熊野に出陣。山中の戦いで苦しみながらも9月下旬に一揆をほぼ抑える。大雪で引き揚げ、翌年は九州征伐へ |
| 藤堂高虎 | 秀長の家臣 | 和歌山城の普請を担い、北山一揆の討伐にも加わる。のちに北山を押さえる赤木城を築き、熊野の材木の管理にもかかわる |
| 吉川平介 | 秀長の山奉行・船奉行 | 熊野の山林と材木の運搬を任される。のちに材木の代金をめぐる不正を問われ、天正17年に処刑される |
| 杉若無心 | 秀長の重臣 | 紀伊南西部の田辺を任され、熊野に近い紀伊南部を押さえる |
| 桑山重晴 | 秀長の重臣 | 和歌山城を預かり、紀伊の支配を支える |
| 伊藤掃部助 | 秀長の重臣 | 9月14日、熊野の山中で部隊が全滅したと伝わる |
| 山本氏ら熊野牢人衆 | 奥熊野・北山の地侍 | 地元の百姓たちとともに一揆を起こし、山を知りつくした地の利を生かして秀長方を苦しめる |
| 堀内氏善 | 新宮の国衆 | 秀吉に降って新宮の所領を認められ、豊臣方として熊野の海側を押さえる |
| 豊臣秀吉 | 関白 | 大坂城・大仏殿のために熊野の材木を求める。一揆のあと、再び起きないよう押さえの城を築くよう命じたともいわれる |
北山一揆の流れ ― 秀長の出陣から赤木城の築城まで

① 天正14年8月 ― 北山の地侍が立ち上がる
天正14年(1586)8月、奥熊野・北山郷の地侍たちが、地元の百姓をまきこんで兵を挙げました。中心となったのは山本氏ら「熊野牢人衆」とよばれる人々で、紀州攻めのあとに居場所を失った武士たちもまじっていたと考えられています。北山は、熊野川や北山川の深い谷に囲まれた山奥で、外から攻めこむのは容易ではありません。
② 8月下旬 ― 秀長、自ら熊野へ
秀長ははじめ、紀伊にいる家臣たちに鎮圧を命じていました。しかし一揆は収まらず、8月の終わりには秀長自身が兵を率いて熊野へ向かいます。天下人の弟である秀長が自ら出陣したことからも、豊臣家がこの一揆を重く見ていたことがわかります。熊野の材木は、すでに始まっていた大仏殿の造営にも欠かせないものでした。
③ 9月 ― 山中の苦戦
熊野の山の中では、大軍の強みは生かせません。細い山道は一列になって進むしかなく、谷や尾根を知りつくした地侍たちは、木々の陰から矢や鉄砲を放っては山に消えました。9月9日には激しい戦いで多くの被害が出て、9月14日には秀長の重臣・伊藤掃部助の部隊が全滅したと伝わります。秀長にとって、これほどの損害を出した戦いは多くありませんでした。
④ 9月下旬〜10月 ― ほぼ鎮圧、そして大雪
それでも秀長方は少しずつ一揆勢を追いつめ、9月23日ごろには一揆をほぼ抑えこみました。秀長はさらに山にこもった残党を追いましたが、10月になると熊野の山に大雪が降り、兵を引き揚げざるをえませんでした。翌天正15年には九州征伐が控えていて、秀長は九州へ大軍を率いて出陣することになります。熊野の残党の処分は、そのまま先送りになりました。
⑤ 天正16〜17年 ― 徹底した討伐と赤木城

九州征伐が終わると、豊臣方はあらためて北山の一揆勢の討伐に取りかかりました。天正16年(1588)9月から翌17年5月にかけて、山にこもった一揆勢は徹底的に追われます。その後、再び一揆が起きないよう北山を押さえるために築かれたのが赤木城(いまの三重県熊野市紀和町)です。築いたのは藤堂高虎とされ、高い石垣や枡形の虎口を備えた、山奥とは思えない本格的な城でした。のちに築城の名人とよばれる高虎の、初期の城の一つと考えられています。

赤木城のすぐ近くには、田平子峠刑場跡があります。赤木城の完成祝いを口実に一揆に加わった人々を呼び出し、この峠で処刑したという話が伝わっています。ただし、この処刑が天正の北山一揆のあとのことなのか、慶長19年(1614)の慶長の北山一揆のあとのことなのかは、伝わり方によって異なり、はっきりしません。いまは赤木城跡とあわせて国の史跡となり、一揆で亡くなった人々の供養塔が建てられています。

秀長はなぜ熊野で苦戦したのか
| 理由 | 内容 |
|---|---|
| 山深い土地 | 熊野は深い谷と険しい尾根が続く土地で、大軍が展開できない。細い道を一列で進むしかなかった |
| 地の利は一揆方に | 地侍たちは山を知りつくしており、待ち伏せや奇襲で秀長方を苦しめた |
| 早い冬と大雪 | 10月には大雪となり、山の中で兵を動かし続けることができなかった |
| 九州征伐との兼ね合い | 翌年には九州征伐が控えており、熊野にだけ兵を割き続けることはできなかった |
秀長は、四国攻めの総大将や九州征伐の日向方面の大将として、大軍を率いて大きな勝利をあげた武将です。その秀長が、自分の領国の山奥の一揆に1か月以上も手を焼いたことは、戦国の戦いが兵の数だけでは決まらないことをよく表しています。豊臣の天下は、大きな合戦だけでなく、こうした地方の小さな抵抗を一つずつおさえることで固められていきました。
北山一揆のその後
| 人物・土地 | その後 |
|---|---|
| 豊臣秀長 | 天正15年の九州征伐で日向方面の大将として島津を降す(根白坂の戦い)。天正19年(1591)1月、大和郡山城で病のため亡くなる |
| 藤堂高虎 | 秀長のもとで熊野の山や材木にもかかわり、秀長の死後は甥の豊臣秀保に仕える。のちに伊予宇和島、伊勢津の大名となり、築城の名人として名を残す |
| 吉川平介 | 熊野の材木の代金をめぐる不正を問われ、天正17年(1589)に処刑される。秀長も秀吉の怒りを受けたと伝わる |
| 熊野の材木 | 大坂城、聚楽第、方広寺大仏殿など、秀吉の巨大な建物を支える |
| 北山 | 江戸時代のはじめ、慶長19年(1614)に再び一揆が起こる(慶長の北山一揆)。紀伊の浅野家に鎮圧され、多くの人が処刑された |
まとめ
北山一揆は、紀州攻めのあと紀伊を任された豊臣秀長の支配に対して、奥熊野・北山の地侍たちが起こした一揆です。熊野の山は、大坂城や大仏殿の材木を生む宝の山でした。秀長は天正14年8月に自ら出陣しましたが、険しい山の中で重臣の部隊を失うほどの苦戦を強いられ、9月下旬にようやく一揆をほぼ抑えたものの、10月には大雪で兵を引きました。残党の討伐は天正17年まで続き、藤堂高虎が赤木城を築いて北山を押さえます。豊臣の天下の陰で起きた、山の民の抵抗の記録です。
































