人取橋の戦いをわかりやすく解説|伊達政宗はなぜ3万の連合軍に負けなかったのか ― 鬼庭左月の殿と佐竹の撤退

人取橋のあたりで大軍に押し寄せられる伊達勢のイメージ

天正13年(1585)の冬、家督を継いでまだ1年ほどの伊達政宗は、生涯でもっとも危ない戦いを経験します。父・輝宗の死をきっかけに二本松城を攻めていたところへ、佐竹・蘆名をはじめとする南奥州の大名たちが連合して押し寄せたのです。兵の数は伊達方のおよそ4倍。政宗はどうやってこの窮地を切り抜けたのか。人取橋の戦いを、登場する武将と戦いの流れから、わかりやすく解説します。

先に答え

人取橋の戦いは、伊達政宗と、佐竹義重を中心とする南奥州の連合軍が、安達郡の人取橋(いまの福島県本宮市)のあたりでぶつかった戦いです。伊達方は押しまくられ、老将・鬼庭良直(左月斎)が殿(しんがり)となって討ち死にし、政宗自身も危うい目にあいました。

ところがその夜、連合軍は兵を引いてしまいます。佐竹家の陣中で重臣が殺される事件が起き、本国の常陸も安心できない状態だったためといわれます。政宗は「負けたのに滅びなかった」この戦いを生き延び、のちの摺上原の戦いで南奥州の覇者となっていきます。

人取橋の戦いの基本データ
いつ天正13年(1585)11月17日(西暦では1586年1月)
どこ陸奥国安達郡の人取橋とその周辺(いまの福島県本宮市)。瀬戸川にかかる橋で、北に二本松城、近くに本宮城がある
対立伊達政宗 × 反伊達連合(佐竹・蘆名・岩城・石川・白河・二階堂など)
兵力伊達方 約7,000、連合軍 約30,000(いずれも後世の軍記による数字)
結果伊達方は押し込まれて大きな損害を出すが、その夜に連合軍が撤退。伊達家は危機を脱した
この後翌年7月に二本松城が開城。政宗は南奥州で勢力を広げ、天正17年(1589)の摺上原の戦いで蘆名家を破る
人取橋のあたりで大軍に押し寄せられる伊達勢のイメージ
冬の人取橋で、連合軍の大軍を食い止める伊達勢(イメージ)

■ 豊臣秀吉・秀長 オリジナルグッズ ■

姉妹サイト「日本の歴史ガイド」がデザインした秀吉・秀長グッズ。Tシャツ・マグカップ・トートバッグに加え、スマホケース・フェイスタオル・タンブラーなどもあります

秀吉・秀長グッズを見る ▶

※姉妹サイト「日本の歴史ガイド」のオリジナル商品です。NHK・大河ドラマの公式グッズではありません。

目次

人取橋の戦いの年表

年月おもな出来事
天正12年(1584)10月18歳の政宗が、父・輝宗から家督を譲られる
天正13年(1585)閏8月伊達から離れて蘆名についた大内定綱を攻め、小手森城を落とす。城にいた者をことごとく討ち取った「なで斬り」と伝わる
天正13年(1585)10月大内と手を組んでいた二本松城主・畠山義継が降伏を申し出る。条件の交渉ののち、義継があいさつに訪れた宮森城で輝宗を連れ去る
天正13年(1585)10月8日阿武隈川のほとり(高田原)で、追ってきた伊達勢の前で輝宗と義継がともに命を落とす
天正13年(1585)10月中旬〜政宗が弔い合戦として二本松城を囲む。城は義継の幼い子・国王丸を立てて守る
天正13年(1585)11月二本松を救うため、佐竹義重を中心に連合軍が須賀川方面に集まり、北へ進む
天正13年(1585)11月17日人取橋の戦い。伊達方は押し込まれ、鬼庭良直らが討ち死に
天正13年(1585)11月18日夜のうちに連合軍が撤退していたことがわかる
天正14年(1586)7月相馬義胤の仲立ちで、二本松城が開城。畠山家の者は会津の蘆名を頼って落ちる
天正17年(1589)6月5日摺上原の戦い。政宗が蘆名義広を破り、会津を手に入れる

なぜ戦いが起きたのか ― 輝宗の死と二本松城

家督を継いだ政宗は、まわりの国衆に強い態度で臨みました。とくに、伊達に従うと見せて蘆名についた塩松の大内定綱には厳しく、小手森城を攻め落として城中の者を討ち取ったと伝わります。この苛烈なやり方に、近くの二本松城主・畠山義継はおそれをなし、降伏を申し出ました。

ところが、降伏の条件は畠山家にとって厳しいものでした。10月、義継は輝宗のいる宮森城へあいさつに訪れ、その帰りぎわに輝宗を連れ去ります。伊達勢はあとを追い、阿武隈川のほとりで義継を討ちましたが、輝宗もここで命を落としました。政宗がその場で何を命じたのかは、史料によって書き方が違い、はっきりしません。

父を失った政宗は、弔い合戦として二本松城を囲みます。城は義継の幼い子・国王丸を立てて守りを固めました。これを見て動いたのが、畠山家と結んでいた南奥州の大名たちです。伊達がこのまま大きくなれば、次は自分たちの番になる。そう考えた家々が、佐竹義重を中心に手を組みました。

二本松城(霞ヶ城)跡の石碑と箕輪門の櫓
二本松城(霞ヶ城)跡の碑と箕輪門の櫓(筆者撮影)。いまの石垣や門は江戸時代の丹羽家の城のもので、門と櫓は復元
二本松城の高い石垣と白壁
二本松城の石垣(筆者撮影)。畠山家のころは、この奥の山の上が城の中心だった
家当時の当主・中心人物伊達との関係
佐竹家(常陸)佐竹義重連合軍の中心。母が伊達晴宗(政宗の祖父)の娘で、伊達家とは縁戚。常陸から南奥州へ勢力をのばしていた
蘆名家(会津)当主は幼い亀王丸。重臣たちが家を動かす二本松の畠山家・大内定綱の後ろ盾。のちに摺上原で政宗と決戦
岩城家(磐城)岩城常隆佐竹と結び、連合軍に加わる
石川家(石川郡)石川昭光政宗の叔父(輝宗の弟)でありながら、連合軍の側に立つ
白河家(白河)白河義親佐竹とのつながりから連合軍に加わる
二階堂家(須賀川)阿南姫(大乗院)が家を支える阿南姫は輝宗の姉で、政宗のおば。夫・二階堂盛義の死後、須賀川城を守る

連合軍には、政宗の叔父やおばの家まで入っていました。南奥州の大名たちは婚姻で複雑につながっており、「身内だから味方」とは限らなかったのです。

兵力くらべ ― 伊達7,000対連合軍3万

人取橋の戦いの兵力(通説)
伊達方(伊達政宗)約7,000
連合軍(佐竹・蘆名・岩城・石川・白河・二階堂)約30,000

連合軍は伊達方の約4倍。しかも伊達方は、二本松城の包囲にも兵を残したまま連合軍を迎え撃ちました。数字は後世の軍記による通説で、正確な人数はわかっていません。

人取橋の戦いに登場した主な武将(伊達方)

人物立場この戦いでの動き
伊達政宗伊達家の当主(19歳)本陣を構えて連合軍を迎え撃つ。押し込まれて本陣近くまで敵が迫り、本宮城へ退いたと伝わる
伊達成実政宗の従弟で一門の将持ち場を最後まで守り、連合軍の進みを食い止めた。この戦いでの奮戦がよく知られる
鬼庭良直(左月斎)輝宗の代からの老臣(73歳とされる)殿となって敵の中へ斬り込み、政宗を退かせる時間をかせいで討ち死にしたと伝わる
片倉景綱政宗の側近政宗のそばにあって戦う。政宗を逃がすために働いたという話も残る
鬼庭綱元良直の子。子孫の茂庭家は伊達家中で重んじられ、江戸時代には松山(いまの宮城県大崎市)1万3千石を治める重臣の家として幕末まで続いた父の跡を継ぎ、のちに政宗の重臣として外交や財政を担う
伊達輝宗政宗の父戦いの1か月余り前、畠山義継に連れ去られて命を落とす。この戦いの発端となった

人取橋の戦いに登場した主な武将(連合軍)

人物立場この戦いでの動き
佐竹義重常陸の大名。「鬼義重」の異名連合軍の中心として北上。戦いの夜に陣を払い、常陸へ引き返す
岩城常隆磐城の大名佐竹と結んで兵を出す
石川昭光石川郡の領主。政宗の叔父連合軍の一員として加わる。のちに政宗に従い、伊達一門として重んじられる
白河義親白河結城家の当主佐竹とともに兵を出す
阿南姫(大乗院)二階堂家を支えた女性。政宗のおば須賀川の二階堂家として連合軍に加わる。のちに政宗と最後まで争う
大内定綱塩松の領主小手森城を追われて蘆名を頼る。のちに政宗に許されて家臣となる

人取橋の戦いの流れ ― 一日で何が起きたのか

二本松城・本宮城・人取橋・瀬戸川と、南から北上する連合軍の動きを示した位置関係図
二本松城・本宮城・人取橋の位置関係。南から北上する連合軍を、伊達勢が本宮の南で迎え撃った(イメージ図)

① 連合軍が北上し、伊達方の城を落とす

二本松城を囲んでいた政宗のもとに、南から連合軍が迫っているという知らせが入ります。政宗は二本松の囲みに兵を残しつつ、本宮城へ出て迎え撃つ構えをとりました。連合軍は11月16日ごろ、伊達方についていた安達郡南部の城を次々に落とし、本宮の目の前まで進んできます。

② 11月17日、人取橋をはさんで激突

17日、両軍は本宮の南、瀬戸川にかかる人取橋のあたりでぶつかりました。政宗は高台に本陣を置き、一門の伊達成実らがその前に陣を構えます。数で勝る連合軍は次々と新手を繰り出し、伊達勢はじりじりと押し込まれていきました。「人取橋」の名は、この戦いで多くの人が討たれたことから付いたともいわれます。

③ 本陣近くまで敵が迫る

やがて連合軍は政宗の本陣近くまで押し寄せました。政宗自身も矢や鉄砲を受ける危険のなかにいたと伝わり、甲冑に弾の跡が残ったという話もあります。ここで伊達勢が崩れていれば、政宗が討たれていてもおかしくない場面でした。

④ 鬼庭左月の殿

黄色い頭巾をかぶった老将・鬼庭左月が殿となって敵中へ斬り込むイメージ
殿となって敵中へ斬り込む鬼庭左月(イメージ)

このとき殿を買って出たのが、輝宗の代から仕えてきた老将・鬼庭良直(左月斎)でした。73歳とされる左月は、重い甲冑ではなく黄色い綿の帽子(頭巾)をかぶって馬に乗り、手勢を率いて敵の中へ斬り込んだと伝わります。左月が敵を引きつけているあいだに政宗は退き、左月はそのまま討ち死にしました。

同じころ、伊達成実も持ち場を守り抜き、連合軍がそれ以上進むのを食い止めました。日が暮れて戦いはいったん止みます。伊達方は多くの将兵を失い、翌日もう一度戦えば持ちこたえられるかわからない状態でした。

⑤ 一夜で消えた連合軍

ところが翌18日の朝、連合軍は兵を引いていました。理由として伝わるのは、おもに次の二つです。

撤退の理由として伝わる話内容
佐竹の陣中で重臣が殺されたその夜、佐竹義重の一族の重臣が、自分の家来に殺される事件が起きたとされる。軍の要が欠け、陣中が動揺した
本国の常陸が危うくなった佐竹の留守を狙って、常陸の江戸氏や、南の北条・里見の動きが心配されたとされる。佐竹は長く国を空けられなかった

連合軍の中心だった佐竹が引けば、ほかの家だけで戦い続けることはできません。もともと連合軍は、それぞれの家の思わくで集まった寄り合いでした。一つの大きな家が抜けると、全体がくずれてしまう。人取橋の戦いは、そうした「連合軍の弱さ」に政宗が救われた戦いでもありました。

人取橋の戦いは政宗の負けだったのか

戦場の結果だけを見れば、伊達方は押し込まれ、鬼庭左月をはじめ多くの将兵を失いました。戦術のうえでは「負け」に近い戦いです。一方で、連合軍は目的だった二本松城の救援を果たせず、伊達家を倒すこともできませんでした。

見方伊達方連合軍
戦場での結果押し込まれ、大きな損害を出す優位に戦いを進める
戦いの目的二本松城の包囲を続けることができた二本松城を救えず、引き返す
その後二本松城を手に入れ、南奥州で勢力を広げる連合はまとまりを欠き、それぞれ政宗と向き合うことになる

負けに近い戦いをしながら、最後に残ったのは政宗でした。若い政宗にとって、この戦いは「一度の戦場の勝ち負けより、家が生き残ることが大事」という経験になったのかもしれません。

二本松城跡の石垣
政宗が手に入れた二本松城の跡。いまの石垣は江戸時代に整えられたもの(筆者撮影)

人取橋の戦いのその後

人物・家その後
伊達政宗翌年に二本松城を手に入れ、天正17年(1589)の摺上原の戦いで蘆名を破って会津を取る。しかし翌年、秀吉の小田原征伐に遅れて参陣し、会津を取り上げられる
伊達成実摺上原でも活躍。のちに一時伊達家を離れるが、帰参して亘理の領主となる
鬼庭綱元父・左月の跡を継ぎ、政宗の重臣として仕える。のちに茂庭と名を改める
畠山家(二本松)天正14年(1586)7月に二本松城を明け渡し、会津の蘆名を頼る。戦国大名としての畠山家はここで終わる
佐竹義重その後も南奥州で政宗と争う。家督を子の義宣に譲り、佐竹家は豊臣政権のもとで常陸を治める
石川昭光のちに政宗に従い、伊達一門として角田の領主となる
阿南姫(大乗院)天正17年(1589)、政宗に須賀川城を攻められて二階堂家は滅ぶ

筆者のひとこと

二本松城跡の城址碑と箕輪門
二本松城跡の城址碑と箕輪門(筆者撮影)

政宗が攻めた二本松城と、本宮のあたりを歩きました。ほかにも仙台城や瑞鳳殿、政宗が父・輝宗から家督を継いだ米沢城、猪苗代城跡、福島城など、政宗ゆかりの地をいくつも訪ねています。

二本松城跡 本丸へ続く石段と石垣
二本松城跡の本丸へ続く石段(筆者撮影)

人取橋の戦いでいちばん心に残るのは、73歳の鬼庭左月の殿(しんがり)です。誰もが嫌がる殿を、老将の左月が引き受けました。若い政宗に、伊達家のこれからを託していたのかもしれません。

主君のために討死した家臣の家は、代々大切にされると聞きます。調べてみると、左月の子の綱元はその後も政宗を支える重臣となり、家は茂庭と名を改めて伊達家に仕え続けたそうです。

まとめ

人取橋の戦いは、父・輝宗を失ったばかりの若い政宗が、南奥州の大名たちの連合軍に囲まれた戦いでした。伊達勢は数で大きく劣り、鬼庭左月の殿や伊達成実の奮戦でようやく持ちこたえます。そして連合軍は一夜で兵を引き、政宗は生き残りました。ここを切り抜けた政宗は、4年後の摺上原の戦いで蘆名を破り、南奥州の覇者へと駆け上がっていきます。

戦国の合戦 合戦特集 ― 桶狭間から大坂の陣まで40を超える合戦をわかりやすく解説
  • URLをコピーしました!

ほかの武将も見る

目次