柴田礼能 | 大友宗麟に仕えたキリシタン武将

しばた れいのう

地域九州
所属勢力・属性大友家臣
大名家大友
家紋―
主武器大槍
衣装・甲冑塗具足
武将タイプ大友家のキリシタン武将

大友宗麟に仕えたキリシタン武将。杏葉紋を許されるほど重用された。豊薩合戦で兄・紹安が島津方に寝返ったため疑われ、臼杵城から出撃して子とともに討たれたと伝わる。

目次

柴田礼能とは

このページの人物は、大友氏の家臣・柴田礼能(しばた れいのう)にあたる。「紹文」という名は、今回調べた範囲では確認できなかった。柴田氏は豊後国大野郡の国人(その土地の武士)で、野津院衆の一つとされる。

礼能はキリシタンで、イエズス会の記録(フロイス『日本史』など)には「柴田リイノ」の名で出てくる。天正8年(1580年)には安岐城の攻略などで働き、天正10年(1582年)には府内の奉行クラスの役に就いたとされる。天正12年(1584年)には大友家の杏葉紋の使用を許され、一族に準じる扱いを受けたという。天正14年(1586年)3月、豊臣秀吉に助けを求めて大坂へ上った大友宗麟に同行した。

兄・紹安の寝返り

天正14年(1586年)冬、島津勢が豊後へ攻め込んだ(豊薩合戦)。礼能の兄・柴田紹安は朝日嶽城を守っていたが、島津家久の軍に戦わずして降ったとされる。軍記『豊薩軍記』によれば、紹安は朝日嶽城への配置を左遷と恨み、宗麟に重用される弟をねたんでいたという。

紹安はのちに島津方からも疑われた。妻子は大友方の佐伯惟定の攻撃で命を落とし、紹安自身も島津方に背いて籠城する中で殺されたと伝わる。

臼杵城での最期

臼杵城(大分県臼杵市)は、宗麟が永禄5〜6年(1562〜1563年)に丹生島に築いた城で、丹生島城とも呼ばれる。豊薩合戦では宗麟がここに籠城し、「国崩し」と呼ばれた大砲も使って島津勢を防いだとされる。

礼能はこの籠城に加わっていたが、兄の寝返りのために疑いの目を向けられた。汚名を晴らそうと子とともに城を出て島津勢の前に進み、親子とも討たれたと伝わる。フロイスの記録を紹介する解説では、島津勢の一斉射撃を受けたとされる。現在の要約にある「鞍懸城主」としての討死は、資料では確認できない。

ゆかりの地

  • 臼杵城跡(大分県臼杵市):大友宗麟が築いた城。豊薩合戦で宗麟が籠城し、礼能は城から出撃して討たれたと伝わる

参考にした資料

大友家

主家

家臣団

立花道雪高橋紹運
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