弘中隆包 | 大内家屈指の名将(弘中中務少輔)。厳島の戦いにおいて陶晴賢に毛利の罠だと警告するも容れられず、厳島で戦死

弘中隆包

ひろなか たかかね

地域中国
所属勢力・属性大内家臣
大名家大内
家紋丸に違い鷹の羽
主武器太刀・采配
衣装・甲冑塗具足
武将タイプ「弘中柔秀」・智勇

大内家屈指の名将(弘中中務少輔)。厳島の戦いにおいて陶晴賢に毛利の罠だと警告するも容れられず、厳島で戦死。「弘中柔秀」・智勇と評され、周囲からの信頼も厚かったと伝わる。

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大内屈指の名将・弘中隆包

弘中隆包(ひろなか たかかね)は、周防・長門の大名・大内氏に仕えた屈指の名将で、弘中中務少輔(なかつかさしょう)とも称されます。厳島の戦いにおいて、陶晴賢に「毛利の罠だ」と警告しながらも容れられず、厳島に戦死した悲運の将です。

大内・陶氏を支えて

弘中隆包は、大内氏、そして実権を握った陶晴賢のもとで、その武略によって重きをなしました。戦局を冷静に読む眼を持った、思慮深い名将だったのです。

厳島への警告

弘文3年(1555年)、陶晴賢は毛利元就を討つべく、厳島へと大軍を渡海させようとしました。弘中隆包は、狭い島に大軍を送り込むことの危険を見抜き、これは毛利の罠であると強く警告します。しかし、勝利を確信する陶晴賢は、この諫言を聞き入れませんでした。

厳島に散る

弘中隆包の危惧したとおり、厳島の戦いで陶の大軍は毛利元就の奇襲の前に大混乱に陥り、大敗を喫しました。弘中隆包も、この戦いで奮戦の末に厳島に散ります。弘中隆包の生涯は、厳島の罠を見抜きながらも容れられず、主君とともに散った、その炯眼と悲運を今に伝えています。

大内家

主家

大内義隆大内義興

家臣団

三浦恵次三浦房清内藤興盛内藤隆春冷泉隆豊問田隆盛江良房栄陶晴賢陶興房飯田興秀
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