しもつま らいりゅう
| 地域 | 近畿 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 本願寺家臣 |
| 大名家 | 本願寺 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀・行政書状 |
| 衣装・甲冑 | 高級僧衣 |
| 武将タイプ | 外交・実務 |
本願寺の坊官。石山合戦の時期に法主顕如・教如父子の奏者を務め、天正8年(1580)の織田信長との講和では誓紙に連署した。講和後も教如に従って顕如の不興を買い、のち東本願寺の筆頭坊官となった。
目次
本願寺の坊官・下間氏
下間氏は本願寺の家政や寺務を担った坊官(寺に仕える家臣)の一族である。下間頼龍(しもつま らいりゅう、頼竜とも)は下間真頼の子で、幼名は松菊、法名は了明。慶長14年(1609)に58歳で没したとされ、逆算すると天文21年(1552)頃の生まれとなる。
石山合戦での役割
元亀元年(1570)から、本願寺は織田信長と約10年にわたって戦った(石山合戦)。元亀3年(1572)、頼龍は一族の下間頼資・頼廉らとともに信長方の細川昭元を攻めたとされる。
天正5年(1577)頃から、頼龍は法主顕如と子の教如の奏者を務めた。奏者は法主への取り次ぎと命令の伝達を担う役である。天正8年(1580)に顕如が信長と講和すると、頼龍は下間仲孝・頼廉とともに講和の誓紙に署名した。
教如への随従と東本願寺
同年、教如は講和に反対して石山に籠城を続けた。教如の側近だった頼龍はこれに従い、顕如の叱責を受けたとされる。天正10年(1582)に教如が顕如と和解した後も、頼龍は表舞台から遠ざけられたという。
天正20年(1592)に顕如が没すると、頼龍は教如に赦免されて奏者に復帰した。しかし翌文禄2年(1593)、豊臣秀吉の命で教如は退隠し、弟の准如が本願寺を継いだ。慶長7年(1602)に教如が徳川家康の支援で東本願寺を開くと、頼龍は筆頭の坊官として寺務を支えた。慶長14年6月15日に没した。子に播磨新宮藩主となった池田重利がいる。
ゆかりの地
- 東本願寺(京都市下京区):頼龍が筆頭坊官として仕えた寺





















