田中城の戦いをわかりやすく解説|900人で1万の豊臣軍に40日抵抗した和仁三兄弟 ― 肥後国人一揆最大の籠城戦と辺春親行の寝返り

二重の柵に囲まれた田中城で豊臣方の大軍を迎え撃つ和仁三兄弟(イメージ)

天正15年(1587)、九州平定のあと肥後を与えられた佐々成政に対し、肥後の国人たちが一斉に立ち上がりました。肥後国人一揆です。その最後の拠点の一つとなったのが、肥後北部の田中城(熊本県玉名郡和水町)でした。城主の和仁親実は、わずか900余りの兵で豊臣方の約1万の大軍に囲まれながら、およそ40日にわたって城を守り抜きます。しかし最後は、身内の裏切りによって城は落ちました。大河ドラマ『豊臣兄弟!』第42回で描かれる肥後の一揆のなかで、最も激しい籠城戦となった田中城の戦いを、戦の流れに沿って解説します。

先に答え

田中城の戦いは、肥後国人一揆に加わった和仁親実が、弟の親範・親宗、姉の夫の辺春親行とともに田中城にこもり、小早川秀包・安国寺恵瓊・立花宗茂・鍋島直茂・筑紫広門らの豊臣方約1万と戦った籠城戦です。

天正15年10月末に包囲が始まり、城方は二重の柵に囲まれながらも約40日持ちこたえました。しかし安国寺恵瓊の調略で辺春親行が寝返り、12月5日に落城。和仁一族は滅びました。このとき豊臣方が描いた陣取図が残っており、日本最古の城攻めの絵図ともいわれます。

田中城の戦いの基本データ
いつ天正15年(1587)10月下旬〜12月5日
どこ肥後国玉名郡の田中城(和仁城とも。いまの熊本県玉名郡和水町和仁)
対立和仁親実・親範・親宗、辺春親行(一揆方)× 小早川秀包・安国寺恵瓊・立花宗茂・鍋島直茂・筑紫広門ら(豊臣方)
兵力一揆方900余り、豊臣方約1万と伝わる
結果辺春親行の寝返りにより落城。和仁一族は討死し、和仁氏は滅亡
この後肥後国人一揆は鎮まり、佐々成政は翌年切腹。肥後は加藤清正と小西行長に分けられる
目次

田中城の戦いに登場する主な武将

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なぜ田中城で戦いが起きたのか

天正15年6月の九州国分で、肥後の大部分は佐々成政に与えられました。一方で秀吉は、肥後の国人たちにも、それぞれの領地を認める朱印状を渡していました。ところが入国した成政は、すぐに検地(土地の調査)を進めようとします。土地を調べ直されれば、国人たちの取り分は大きく減りかねません。

これに真っ先に反発したのが、菊池郡の有力国人・隈部親永でした。親永が隈府城にこもって検地を拒むと、肥後各地の国人たちが次々に立ち上がり、8月には成政の居城・隈本城まで攻められる事態になります。一揆は肥後全体に広がりました(肥後国人一揆をわかりやすく解説)。

肥後北部の和仁を治めていた和仁親実も、この一揆に加わります。和仁氏は菊池氏・大友氏・龍造寺氏・島津氏と、そのときどきの強い大名に従いながら田中城を守ってきた国人でした。親実は弟の親範・親宗、姉の夫で坂本城主の辺春親行とともに、田中城に立てこもりました。

田中城の位置を示す地図
田中城の位置。筑後との国境に近い肥後北部にあり、北の久留米・柳川や西の肥前から豊臣方の大軍が押し寄せた(イメージ)

田中城とはどんな城か

田中城は、和仁川の東にそびえる小高い山に築かれた山城です。まわりの田からの高さは50メートルほどで、山頂の主郭は東西50メートル、南北40メートルほどの楕円形の平場になっていました。主郭のまわりは崖のように削り落とされ(切岸)、そこから延びる尾根は堀切で断ち切られ、尾根の先には西・北東・南の三方に出丸が置かれていました。

山の斜面には、ひな壇のような平場が数多く残っています。これは、大勢の兵が籠城した跡と考えられています。小さな山城ですが、実戦のために工夫を重ねた城でした。現在は国の史跡に指定され、発掘調査も行われています。

戦いの流れ① 一万の大軍、田中城を囲む ― 天正15年10月末

一揆の広がりに驚いた秀吉は、九州の諸大名に鎮圧を命じました。田中城に向かったのは、筑後久留米の小早川秀包を総大将とする約1万の軍勢です。秀包はこのとき20歳ほどの若さで、毛利家の外交僧として知られる安国寺恵瓊が補佐として実際の指揮をとったとみられます。そこに、柳川の立花宗茂、肥前の鍋島直茂、筑後の筑紫広門らが加わりました。

10月28日ごろ、豊臣方は田中城に着くと、城の四方を取り囲みました。南に立花宗茂、西に小早川秀包と安国寺恵瓊、北に鍋島直茂、東に筑紫広門という布陣だったと伝わります。さらに城のまわり約5キロにわたって二重の柵を巡らせ、城をすっかり封じ込めました。

戦いの流れ② 900対1万 ― 和仁三兄弟の奮戦

城方は900余り。10倍以上の敵に囲まれながら、和仁三兄弟は城を守り抜きます。城の出丸や斜面の平場に兵を配り、崖を登ってくる敵を上から迎え撃ちました。弟の和仁親範は、攻め寄せた立花家の武士を討ち取ったとも伝わります。

豊臣方は、無理な力攻めで兵を失うことを避けたようです。柵で城を囲んで出入りを断ち、城内の兵糧が尽きるのを待つ構えをとりました。こうして攻防は11月を過ぎ、40日近くに及びます。九州平定を終えたばかりの豊臣方にとって、小さな山城一つを落とせない状況は、決して軽いものではありませんでした。

二重の柵に囲まれた田中城で豊臣方の大軍を迎え撃つ和仁三兄弟
二重の柵に囲まれた田中城。城の上から和仁三兄弟が、斜面を登る豊臣方の大軍を迎え撃つ(イメージ)

戦いの流れ③ 安国寺恵瓊の調略と辺春親行の寝返り ― 12月5日

長引く籠城戦を終わらせたのは、武力ではなく調略でした。安国寺恵瓊は、城内の辺春親行にひそかに寝返りを持ちかけます。親行は和仁親実の姉の夫で、いわば身内です。その親行が豊臣方に通じ、城の守りを内側から崩しました。

安国寺恵瓊が辺春親行に寝返りを説く場面
陣中で辺春親行に寝返りを説く安国寺恵瓊(イメージ)

12月5日、田中城はついに落ちました。和仁親実・親範・親宗の三兄弟は討死し、和仁氏はここに滅びます。寝返った辺春親行も、その後に命を落としたと伝わり、裏切りによって家を守ることはできませんでした。

日本最古の城攻め絵図『辺春和仁仕寄陣取図』

田中城の戦いには、ほかの戦いにはない貴重な資料が残っています。平成元年(1989)、山口県文書館の毛利家の文書のなかから、この戦いで豊臣方の陣の配置を描いた絵図『辺春和仁仕寄陣取図(へばるわにしよせじんどりず)』が見つかりました。

この絵図には、城を取り囲む二重の柵や、攻め手の大名たちの陣の位置が描かれています。絵図に描かれた城の姿は、発掘調査で明らかになった城の構造とよく一致していました。戦国時代の城攻めの様子を、攻め手の側から描いた絵図として、日本で最も古いものの一つといわれています。小早川秀包が毛利家の一族だったことから、毛利家に伝わったと考えられます。

年表で見る田中城の戦い

年月できごと
天正15年(1587)6月九州国分で佐々成政が肥後の大部分を与えられる
天正15年7〜8月成政の検地に反発し、隈部親永が隈府城で挙兵。一揆が肥後全体に広がる
天正15年10月下旬和仁親実らが田中城にこもる。小早川秀包らの豊臣方約1万が城を包囲
天正15年11月豊臣方は二重の柵で城を封じ込め、持久戦となる
天正15年12月5日辺春親行の寝返りにより落城。和仁三兄弟が討死
天正16年(1588)閏5月一揆の責任を問われ、佐々成政が切腹
天正16年肥後が加藤清正(北半)と小西行長(南半)に分けられる

田中城の戦いが残したもの

田中城の落城によって、肥後国人一揆はほぼ鎮まりました。しかし秀吉は、一揆を招いた佐々成政を許さず、翌年に切腹させます。また、一揆に加わった肥後の国人たちの多くは滅ぼされ、肥後は加藤清正と小西行長という、秀吉子飼いの大名に分けて与えられました。中世から続いた肥後の国人の時代は、この戦いで終わりを告げたといえます(佐々成政の生涯)。

現在の田中城跡の近くには、和仁三兄弟の銅像が立ち、廃校を活用した資料館で落城までの流れを知ることができます。主郭や堀切、出丸の跡を歩けば、900人が1万の大軍に立ち向かった40日間をしのぶことができます。

まとめ

田中城の戦いは、肥後国人一揆のなかで最も激しい籠城戦でした。和仁親実ら900余りの兵は、二重の柵に囲まれながら約40日持ちこたえましたが、安国寺恵瓊の調略による身内の寝返りで、天正15年12月5日に落城しました。この戦いを最後に一揆は鎮まり、佐々成政は責任を問われて切腹、肥後は加藤清正と小西行長に分けられます。肥後国人一揆の全体像は、姉妹サイトの日本の歴史ガイド「肥後国人一揆とは」でも取り上げています。

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