あさくら たかかげ
| 地域 | 北陸(越前) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 朝倉氏(越前の戦国大名・初代) |
| 大名家 | 朝倉家 |
| 家紋 | 三つ盛木瓜 |
| 主武器 | 太刀 |
| 衣装・甲冑 | 具足・陣羽織 |
| 武将タイプ | 戦国大名の先駆け |
朝倉孝景(あさくら たかかげ)は、越前の朝倉家を戦国大名に押し上げた人物で、のちの子孫と区別して「英林孝景」とも呼ばれる。敏景とも名のった。正長元年(1428年)に生まれ、文明13年(1481年)に54歳で亡くなった。応仁の乱で主家の斯波家から越前を奪い、一乗谷を本拠とした。家訓「朝倉孝景条々」は、戦国時代の分国法の早い例として知られる。
3行でわかる朝倉孝景
- 越前守護・斯波家の家臣だったが、応仁の乱で越前の支配権を手に入れた
- 一乗谷に本拠を置き、朝倉家五代の繁栄の土台をつくった
- 実力主義などを説いた家訓「朝倉孝景条々」を残した
目次
応仁の乱と越前
朝倉家はもともと越前守護・斯波家の家臣だった。応仁元年(1467年)に応仁の乱が始まると、孝景ははじめ西軍として戦ったが、のちに東軍に寝返り、そのみかえりとして越前の支配を認められた。こうして主家から国を奪い、戦国大名の先駆けとなった。
朝倉孝景条々
孝景は、家臣や子孫が守るべき心得をまとめた「朝倉孝景条々」(朝倉敏景十七箇条)を残した。家柄ではなく能力で人を取り立てること、本拠の一乗谷以外に城を築かせず家臣を一乗谷に住まわせることなどが説かれている。
朝倉家の繁栄へ
孝景が築いた一乗谷は、その後約100年にわたって朝倉家の本拠として栄え、京の文化が花開く町となった。子の朝倉宗滴(教景)は名将として朝倉家を支え、五代目の義景が織田信長に滅ぼされるまで朝倉家は続いた。
朝倉孝景をめぐる人物
- 子:朝倉氏景/朝倉宗滴(教景) ほか
- 子孫:朝倉義景(五代目)
- 主家:斯波家
ゆかりの地
- 一乗谷朝倉氏遺跡(福井市):孝景が本拠とした地。英林塚(孝景の墓)がある


朝倉宗滴
朝倉義景







































