しばやま むねつな
| 地域 | 近畿(摂津) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 本願寺方 → 荒木村重の与力 → 織田信長 → 豊臣秀吉の馬廻・御咄衆(1万石)。利休七哲の一人 |
| 大名家 | 芝山家 |
| 家紋 | 不明 |
| 主武器 | 采配・太刀 |
| 衣装・甲冑 | 肩衣・袴(茶席)、当世具足(軍目付) |
| 武将タイプ | 茶人武将・軍目付・利休の腹心 |
芝山宗綱(しばやま むねつな)は、豊臣秀吉に仕えた摂津出身の武将で、「芝山監物(けんもつ)」の名で知られる茶人です。千利休の高弟「利休七哲」の一人に数えられ、いま残っている利休の手紙のうち、宛先として最も多いのがこの監物です。利休が切腹の直前に書いた最後の手紙も、監物に宛てたものでした。合戦の大将として名を残した人物ではありませんが、利休の心のうちを最もよく知っていた弟子の一人といえます。
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芝山宗綱の早見表
| 生没年 | 不明 |
|---|---|
| 名前 | 初名は俊一(としかず)。通称は源内、のち監物。「柴山」とも書く |
| 出身 | 摂津。小部(いまの神戸市北区あたり)にいた向(むかい)氏の一族とする説がある |
| 主君 | 本願寺方 → 荒木村重 → 織田信長 → 豊臣秀吉 |
| 役目 | 秀吉の馬廻、軍目付、のち御咄衆(1万石) |
| 茶の湯 | 利休七哲の一人。長次郎の黒楽茶碗「雁取(かりとり)」を利休から贈られた |
| 名を残した道具 | 芝山手水鉢、芝山緞子(どんす) |
摂津の小領主から ― 荒木村重のもとを離れて信長へ
芝山家の出自ははっきりしません。摂津の小部あたりに勢力を持っていた向氏の一族とする説があり、はじめは大坂の石山本願寺の勢力下にいたとされます。摂津の武士たちは、本願寺と織田家のあいだで揺れ動きながら生き残りを図っていました。宗綱も荒木村重らとともに織田信長に近づき、村重のもとで働くようになります。
天正6年(1578)、村重が突然信長に背き、有岡城に立てこもりました。このとき宗綱は、摂津の大和田城(いまの大阪市西淀川区)に安部良成らと詰めていましたが、そろって村重のもとを離れ、信長に帰順します。信長は彼らに黄金を与えたと伝わります。主君の謀反に従わなかったこの決断が、宗綱のその後を開きました。
のちに村重は茶人「道薫(どうくん)」として生き延び、秀吉の茶会にも姿を見せるようになります。かつての主従が、主と離れた家臣と、すべてを失った元の主として、同じ茶の湯の世界で顔を合わせることになったのは、この時代ならではの巡り合わせでした。
茶人「監物」のはじまり ― 天正9年の茶会
宗綱は早くから茶の湯に打ちこんでいました。天正9年(1581)には、堺の津田宗及や、利休の弟子で『山上宗二記』を書いた山上宗二らを招いて茶会を開いています。まだ信長の時代で、天下一の茶人たちを自分の席に迎えられるほど、すでに名の知られた茶人だったことがわかります。
秀吉の馬廻・軍目付として
本能寺の変のあと、宗綱は秀吉の馬廻となりました。馬廻は主君の身辺を守る親衛隊で、戦場では伝令や見張りの役もつとめます。宗綱はとくに軍目付(いくさめつけ)として働いたことが伝わります。軍目付は、各部隊の働きを見届けて主君に報告する役で、手柄の認定や軍令違反の取り締まりにかかわる大事な仕事でした。
天正18年(1590)の小田原征伐にも、50騎とも80騎ともいわれる兵を率いて加わっています。天正16年(1588)正月に秀吉が参内したときには、供の者の一人として名前が見えます。さらに同じ年の4月、後陽成天皇が聚楽第に行幸した際には、瀬田正忠とともに行列の先導をつとめたとされます。いずれも、秀吉が自分の権威を内外に見せる晴れの場でした。
利休の手紙が最も多く残る弟子
宗綱の名を今日まで伝えているのは、何より利休とのつながりです。現在確認されている利休の書状のうち、監物宛てのものが最も多く残っています。手紙の中身は茶会の誘いや道具の話が中心で、利休がこの弟子を気軽に呼び出し、相談相手にしていた様子がうかがえます。
群馬県立近代美術館に伝わる利休の書状は、そのよい例です。利休は監物に、瀬田正忠(掃部)と二人で明朝お茶を一服差し上げたいと書き、その折にはかねて見たがっていた「橋立の壺」をお見せしましょう、と添えています。橋立の壺は足利将軍家から信長を経て利休の手に渡った名物の茶壺で、利休が手元から離さなかった秘蔵の品でした。それを見せる相手に選ばれていたことは、監物と掃部が利休にとって特別な弟子だったことを物語っています。
利休はまた、長次郎が焼いた黒楽茶碗「雁取(かりとり)」を監物に贈っています。利休が自分の美意識を込めて長次郎に焼かせた楽茶碗を、弟子に手渡したのです。
利休最後の手紙 ― 天正19年の別れ
天正19年(1591)2月、利休は秀吉の怒りにふれ、堺での謹慎を命じられたのち、京で切腹しました(千利休はなぜ切腹したのか)。このとき利休が最後に書いた手紙の宛先が、芝山監物だったと伝わります。秀吉の側近として仕える立場にありながら、師との連絡を最後まで絶たなかった弟子だったことになります。
利休の死後、宗綱は秀吉の御咄衆(おはなししゅう)に加えられ、1万石を与えられたとされます。御咄衆は秀吉の話し相手をつとめる側近で、教養や経験の豊かな者が選ばれました。師を死に追いやった主君のそばで話し相手をつとめた宗綱の胸の内は、記録には残っていません。その後の消息や亡くなった年もわかっていません。
「芝山」の名が残る茶道具
宗綱の名は、いくつかの茶道具の呼び名として今も使われています。京都・大山崎の妙喜庵(国宝の茶室「待庵」がある寺)の庭にある素朴な手水鉢は「芝山手水鉢」と呼ばれ、利休好みの形として知られています。また、名物裂(めいぶつぎれ)の一つ「芝山緞子」も、監物が所持したことからその名がついたとされます。
武将としての戦功は大きく伝わっていなくても、茶の湯の世界では、名前そのものが道具の格を示す言葉として四百年以上生き続けているのです。
芝山宗綱をめぐる人物
ゆかりの地
- 妙喜庵(京都府乙訓郡大山崎町):利休の茶室「待庵」と、芝山手水鉢が伝わる寺
- 大和田城跡(大阪市西淀川区):荒木村重の謀反のとき宗綱が詰めていた城
- 北野天満宮(京都市上京区):天正15年に北野大茶湯が開かれた場所






















































