御館の乱をわかりやすく解説|上杉景勝と景虎はなぜ争ったのか ― 謙信の急死、武田勝頼の和睦、景虎の最期

春日山城跡に立つ上杉三郎宅址の碑

天正6年(1578)3月、越後の龍・上杉謙信が春日山城で急死しました。謙信には実の子がなく、跡継ぎもはっきり決めていませんでした。残されたのは、二人の養子です。一人は謙信の姉の子・上杉景勝、もう一人は北条氏康の子・上杉景虎。二人の争いは越後の武将たちを二つに割り、隣国の北条・武田・蘆名まで巻きこむ大きな内乱になりました。景虎がこもった館の名から「御館の乱」と呼ばれます。御館の乱を、登場する武将と戦いの流れから、わかりやすく解説します。

先に答え

御館の乱は、上杉謙信の死後、養子の上杉景勝と上杉景虎が跡目を争った越後の内乱です(天正6年〜7年)。景勝は謙信が亡くなるとすぐに春日山城の本丸と金蔵を押さえ、景虎は城下の御館に移って、実家の北条家に助けを求めました。

勝負を分けたのは、景虎の味方として出陣した武田勝頼が、景勝と手を結んだことです。北条の援軍も雪に阻まれ、孤立した御館は翌年3月に落城。景虎は逃げる途中の鮫ヶ尾城で城主に裏切られ、自害しました。勝った景勝が上杉家を継ぎますが、越後は長い内乱で大きく傷つきました。

御館の乱の基本データ

いつ 天正6年(1578)3月〜天正7年(1579)3月。残る景虎方の城が落ちる天正8年(1580)まで続いたとも
どこ 越後国の春日山城と、その城下の御館(いまの新潟県上越市)を中心に、越後の各地
対立 上杉景勝(謙信の姉の子)× 上杉景虎(北条氏康の子)
外からの介入 景虎方に北条氏政(景虎の兄)と蘆名家。武田勝頼ははじめ景虎方として出陣したが、途中で景勝と和睦
結果 景勝方の勝利。御館は落城し、景虎は鮫ヶ尾城で自害。前の関東管領・上杉憲政と、景虎の子・道満丸も命を落とす
この後 景勝が上杉家を継ぐ。武田と上杉が結ぶ「甲越同盟」が生まれ、怒った北条は武田と手を切る。越後では恩賞への不満から新発田重家の乱が起きる
火をかけられ、落城する御館のイメージ
火をかけられて落城する御館(イメージ)

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目次

御館の乱の年表

年月日 おもな出来事
永禄7年(1564) 景勝の父・長尾政景が亡くなる。景勝は叔父の謙信のもとで育てられる
永禄12年(1569) 謙信と北条氏康が手を結ぶ(越相同盟)
元亀元年(1570) 同盟のあかしとして、氏康の子・三郎が越後へ。謙信の養子となり、謙信のかつての名「景虎」を与えられ、景勝の姉を妻に迎える
天正3年(1575) 謙信が甥の長尾顕景に「景勝」の名と「弾正少弼」の官途を与える。上杉一門の中で景勝の地位が上がる
天正6年(1578)3月13日 謙信が春日山城で急死(49歳)。跡継ぎははっきり決まっていなかった
天正6年3月 景勝が春日山城の本丸に入り、金蔵や武器を押さえる。24日には自分が跡を継いだと書状で内外に知らせる
天正6年5月13日 景虎が春日山城の三の丸を出て、城下の御館に移る。兄の北条氏政に助けを求める
天正6年5月17日・22日 景虎方が春日山城を攻めるが、いずれも退けられる
天正6年5月下旬〜6月 武田勝頼が景虎を助けるため、約2万の兵で信濃と越後の国境に出陣。景勝方が和睦を持ちかけ、勝頼は景勝と結ぶ
天正6年8月 勝頼が景勝・景虎の和睦を仲立ちするが、徳川家康が武田領の駿河に攻めこんだため、勝頼は兵を引く。和睦はすぐに崩れる
天正6年9月〜冬 北条氏照・氏邦が三国峠を越えて越後に入り、樺沢城を奪って坂戸城を攻める。冬の雪を前に主力は引き揚げる
天正7年(1579)2月1日 景勝が御館への総攻撃を命じる。景虎方の勇将・北条景広が討たれる
天正7年3月17日 御館が落城。和睦を求めて景勝の陣へ向かった上杉憲政と、景虎の子・道満丸が途中で殺される
天正7年3月24日 景虎が逃れた鮫ヶ尾城で、城主・堀江宗親に裏切られて自害(26歳)
天正8年(1580) 栃尾城の本庄秀綱、三条城の神余親綱など、最後まで抵抗した景虎方が降るか滅ぼされ、乱がおさまる
天正9年(1581) 恩賞に不満をもった新発田重家が景勝にそむく(新発田重家の乱、天正15年まで続く)

なぜ戦いが起きたのか ― 跡継ぎを決めずに逝った謙信

上杉謙信は生涯妻をもたず、実の子もいませんでした。そのかわりに、何人もの養子を迎えています。御館の乱で争ったのは、そのうちの二人です。

景勝は、謙信の姉(仙桃院)と、上田庄(いまの新潟県南魚沼市)の坂戸城主・長尾政景のあいだに生まれました。父の政景が亡くなったあと、叔父の謙信のもとで育てられ、上杉一門の中心として重んじられていきます。景勝のうしろには、生まれ故郷の上田庄の家臣団「上田衆」がついていました。

一方の景虎は、関東の大名・北条氏康の子です。上杉と北条が手を結んだ越相同盟のあかしとして越後にやってきて、謙信の養子になりました。謙信は自分の若いころの名「景虎」を与え、景勝の姉を妻にさせています。景虎の兄は北条家の当主・北条氏政。景虎が跡を継げば、上杉と北条は一つの家のようにつながることになります。

春日山城跡にひるがえる「毘」の旗
春日山城跡にひるがえる「毘」の旗(筆者撮影)。謙信が深く信仰した毘沙門天の一字で、上杉軍の旗印として知られる

謙信がどちらを跡継ぎにするつもりだったのかは、今もわかっていません。天正3年(1575)に景勝へ「弾正少弼」という謙信自身の官途を譲っていることから景勝とみる説、関東の支配まで考えて景虎とみる説、さらに景虎の子・道満丸に継がせるつもりだったという説もあります。はっきりしているのは、謙信が倒れてから亡くなるまでの4日ほどのあいだに、跡継ぎを家臣たちに示すことができなかったことです。この「空白」が、越後を二つに割ることになりました。

くらべる点 上杉景勝 上杉景虎
生まれ 越後・坂戸城。父は長尾政景、母は謙信の姉 相模・小田原。父は北条氏康
謙信との関係 甥で養子 同盟のあかしとして迎えた養子。景勝の姉の夫
うしろだて 上田衆など越後の家臣団 実家の北条家、前の関東管領・上杉憲政、上野の北条高広など
謙信の死の直後 春日山城の本丸を押さえる 春日山城の三の丸にいた

兵力くらべ ― 越後の外から来た大軍

御館の乱に関わった軍勢(通説)

武田勝頼の軍(信越国境まで出陣)約20,000
景虎方の春日山城攻め(5月17日)約6,000

御館の乱は一度の合戦ではなく、越後じゅうで1年あまり続いた内乱なので、景勝方・景虎方それぞれの総兵力ははっきりしません。目を引くのは、景虎を助けるはずだった武田勝頼の軍が約2万と、越後の両軍をしのぐほどの大軍だったことです。この大軍がどちらにつくかが、乱のゆくえを決めました。

御館の乱に登場した主な武将(景勝方)

人物 立場 この乱での動き
上杉景勝 謙信の甥で養子(24歳) 謙信の死後すぐに本丸と金蔵を押さえ、跡継ぎを宣言。武田勝頼と結んで形勢を逆転させる
直江兼続 このころは樋口与六。上田衆の若い側近(19歳) 景勝のそばで乱を戦う。乱ののち直江家を継ぎ、景勝の右腕となる
斎藤朝信 謙信以来の重臣 新発田長敦とともに武田方との交渉を受け持ち、和睦をまとめる
新発田長敦 揚北衆(越後北部の国衆)の有力者 武田との交渉役。景勝方の勝利に大きく貢献する
新発田重家 長敦の弟。当時は五十公野治長 会津から攻めこんだ蘆名勢を食い止める。乱の後、恩賞に不満を抱く
河田長親 越中を任された重臣 景勝方につき、越中の上杉領を押さえる
上条政繁 上杉一門。謙信の養子の一人ともいわれる 一門ながら景勝方につく
甘粕景持 謙信以来の歴戦の将 景勝方として戦う
本庄繁長 揚北衆の猛将 景勝方につく。一方、子の顕長は景虎方についた
安田顕元 景勝方の国衆 国衆を景勝方に誘う役をつとめる。乱の後、恩賞をめぐる板ばさみで命を絶つ

御館の乱に登場した主な武将(景虎方)

人物 立場 この乱での動き
上杉景虎 北条氏康の子で謙信の養子(26歳) 御館にこもって北条の援軍を待つが、武田の離反で孤立。御館落城ののち鮫ヶ尾城で自害
上杉憲政 前の関東管領。謙信に上杉の名と関東管領職を譲った人物。御館の主 景虎を館に迎え入れ、景虎方の旗頭となる。落城の日、道満丸を連れて和睦に向かう途中で殺される
北条氏政 北条家の当主。景虎の兄 同盟相手の武田勝頼に景虎を助けるよう頼み、自らも弟たちを越後へ送る
北条氏照・氏邦 氏政の弟たち 三国峠を越えて越後に入り、樺沢城を奪って坂戸城を攻める。冬を前に引き揚げる
北条高広 上野・厩橋城主(上杉家臣の北条氏で、小田原の北条とは別の家) 景虎方につき、子の景広を御館に送る。景広は天正7年2月の総攻撃で討たれる
山本寺定長 上杉一門 景虎方につく
蘆名盛氏 会津の大名 景虎方として越後の東から攻めこむが、新発田重家らに阻まれる
本庄秀綱・神余親綱 栃尾城主・三条城主 景虎の死後も城にこもって抵抗を続ける。天正8年に滅ぶ
堀江宗親 鮫ヶ尾城主 景虎方だったが景勝方に寝返り、逃げてきた景虎を攻める

御館の乱の流れ ― 本丸の占拠から鮫ヶ尾城の最期まで

春日山城・御館・鮫ヶ尾城・坂戸城などの位置関係図
春日山城・御館と、景勝方・景虎方のおもな城の位置関係(イメージ図)。武田勝頼の軍は信濃から、北条の援軍は三国峠を越えて関東からやってきた

① 天正6年3月 ― 景勝、本丸と金蔵を押さえる

春日山城跡の天守閣址の碑
春日山城跡の「天守閣址」の碑(筆者撮影)。謙信が亡くなると、景勝はすぐに城のいちばん高い本丸を押さえた

謙信が倒れたのは3月9日、亡くなったのは13日のことでした。景勝の動きは素早く、すぐに春日山城の本丸(実城)に入り、謙信がたくわえていた金蔵や武器蔵、謙信の印判や書状を書く役人たちを押さえました。そして3月24日には、自分が謙信の跡を継いだと国の内外に知らせる書状を出しています。

本丸を押さえるということは、城の一番高いところから下の曲輪を見おろせる、ということでもあります。景虎は春日山城の三の丸にいましたが、本丸の景勝方からの攻撃を受けるようになり、城の中で戦いが始まりました。春日山城跡には今も、景虎(三郎)の屋敷があったと伝わる場所に「上杉三郎宅址」の碑が立っています(この記事のいちばん上の写真)。

② 天正6年5月 ― 景虎、御館へ移る

5月13日、景虎は春日山城を出て、城下の御館に移りました。御館は、北条氏康に敗れて越後に逃れてきた関東管領・上杉憲政のために、謙信が建てた館です。二重の堀に囲まれた大きな館で、謙信の時代には政庁としても使われたといわれます。ここに憲政が景虎を迎え入れたことで、御館は景虎方の拠点となりました。

御館跡の案内板と平面図
御館跡の案内板(筆者撮影)。案内板によると、御館は二重の堀に囲まれた東西約250m・南北約300mの大きな館で、いま御館公園になっているのはその中心の郭の一部にあたる

景虎方は5月17日に約6,000の兵で春日山城を攻め、22日にも攻めかかりましたが、山城の守りは固く、どちらも退けられました。越後の国衆も二つに割れ、栃尾城の本庄秀綱、三条城の神余親綱、上野・厩橋城の北条高広らが景虎方に、揚北衆の新発田長敦・重家兄弟らが景勝方につきます。景虎は兄の北条氏政に助けを求め、氏政は同盟相手の武田勝頼に、越後へ出陣してくれるよう頼みました。

③ 天正6年6〜8月 ― 武田勝頼が景勝と結ぶ

5月の末、武田勝頼は一門の武田信豊を先鋒に、約2万の大軍で信濃と越後の国境に姿をあらわしました。春日山城からそう遠くない場所です。もしこの大軍が景虎方として攻めこめば、景勝の命運はつきていたかもしれません。

ここで景勝方は、勝頼に和睦を持ちかけます。交渉にあたったのは重臣の斎藤朝信と新発田長敦。景勝方は上野にある上杉領を譲ることや、黄金を贈ることを約束したと伝わります。勝頼にとっても、景虎が勝って上杉と北条が一つになれば、武田は東と北を北条に囲まれてしまいます。6月、勝頼は景勝と和睦しました。のちに勝頼の妹・菊姫が景勝に嫁ぐことも決まり、ここから武田と上杉の「甲越同盟」が始まります。

勝頼は越後に入って景勝と景虎の仲直りを取りもとうとし、一時は和睦が成立しかけます。しかし8月、徳川家康が武田領の駿河に攻めこんだため、勝頼は兵を引きました。勝頼が去ると、和睦はすぐに崩れてしまいます。

④ 天正6年9月〜冬 ― 北条の援軍と、雪の三国峠

武田が頼りにならないとわかった北条氏政は、ようやく自分の軍を越後へ送ります。9月、弟の北条氏照・氏邦が上野から三国峠を越えて越後に入り、樺沢城を奪って、景勝の生まれ故郷・上田庄の坂戸城を攻めました。坂戸城を落とせば、春日山の景勝は背後をおびやかされます。

しかし坂戸城は落ちず、やがて越後に冬が来ます。雪で三国峠が閉ざされれば、北条軍は関東へ帰れなくなります。氏照・氏邦は樺沢城に守りの兵を残して引き揚げました。御館の景虎は、援軍が来ないまま、雪の中で年を越すことになります。10月ごろには、御館をはじめ景虎方の城で兵糧が足りなくなっていました。

⑤ 天正7年2〜3月 ― 御館の落城と、上杉憲政・道満丸の死

天正7年(1579)2月1日、景勝は御館への総攻撃を命じました。この日、景虎方でもっとも頼りにされていた勇将・北条景広が、景勝方の荻田長繁に討たれます。同じころ、北条が残した樺沢城も景勝方に取りもどされ、関東からの道は閉ざされました。

追いつめられた御館から、3月17日、上杉憲政が景虎の子・道満丸(9歳)を連れて出ました。景勝の陣へ行き、和睦を願うためだったといわれます。ところが二人は、その途中で景勝方の兵に囲まれて殺されてしまいました。かつて関東管領として関東に号令した憲政の、あまりにあっけない最期でした。誰が殺害を命じたのかは、よくわかっていません。同じ日、御館は火をかけられて落城しました。

⑥ 天正7年3月24日 ― 鮫ヶ尾城、景虎の最期

御館を逃れた景虎は、実家の北条家がある関東を目指して、信濃へ抜ける道に向かいました。途中で入ったのが、妙高の山あいにある鮫ヶ尾城です。城主の堀江宗親は景虎方でした。しかし宗親はすでに景勝方に寝返っており、城に入った景虎を攻めました。逃げ場を失った景虎は、3月24日、鮫ヶ尾城で自害しました。26歳でした。

景虎の妻(景勝の姉)も、御館の落城のときに自ら命を絶ったと伝わります。景勝は、姉とその子をともに失ったことになります。

なぜ景勝が勝ったのか

理由 内容
最初の一手が早かった 謙信の死後すぐに本丸・金蔵・武器・印判を押さえ、跡継ぎを宣言した。山城の本丸を握ったことで、守りも有利になった
武田勝頼を味方につけた 景虎を助けるはずだった約2万の武田軍と和睦し、敵を味方に変えた。北条と武田の同盟のすきまを突いた外交
北条の援軍が遅く、雪に阻まれた 北条軍の越後入りは9月で、冬を前に引き揚げざるをえなかった。御館は孤立した
越後の家臣団がついていた 上田衆に加え、新発田兄弟などの揚北衆、越中の河田長親らが景勝方についた。景虎方は外からの援軍に頼るしかなかった

景虎は北条の子という強いうしろだてを持っていましたが、そのうしろだては越後の外にありました。景勝は越後の中を固め、外の敵を一人ずつ切り離していきました。御館の乱は、合戦の強さよりも、素早さと外交で勝負が決まった戦いだったといえます。

御館の乱のその後

人物・家 その後
上杉景勝 上杉家を継ぐが、内乱で家臣団は傷つき、恩賞をめぐる争いも続く。天正10年(1582)には織田軍に越中・信濃から攻めこまれ、本能寺の変でかろうじて救われる。のちに豊臣政権の五大老の一人となる
直江兼続 天正9年(1581)、重臣の直江信綱が恩賞をめぐる争いに巻きこまれて殺されると、その跡を継いで直江兼続となる。以後、景勝の右腕として上杉家を支える
新発田重家 恩賞への不満から天正9年に景勝にそむき、7年近く戦い続ける。天正15年(1587)に討たれる
武田勝頼 甲越同盟で上杉と結んだが、怒った北条とは同盟が切れ、北条・徳川・織田に囲まれる。天正10年(1582)、天目山の戦いで武田家は滅ぶ
北条氏政 弟の景虎を失い、武田と手を切って織田・徳川に近づく。のちに秀吉の小田原征伐で北条家は滅ぶ
上杉家と北条家 謙信の時代に結ばれた越相同盟は完全に終わり、上杉家に北条の血が入ることはなかった

筆者のひとこと

御館の跡にも行ってきました。いまは広い公園の一角に石碑が2つほど立っているだけで、遺構らしいものは見当たりません。水堀や空堀、地形にも当時の面影はほとんどありませんでした。本来はもっと広い敷地で、堀や土塁、塀に囲まれた館だったのでしょう。

御館公園に立つ史跡御館の碑
御館公園の隅に立つ「史跡 御館」の碑(筆者撮影)

景虎はこの御館から逃れ、実家の北条家を頼って小田原へ向かおうとしましたが、途中の鮫ヶ尾城で城主の裏切りにあい、自害に追いこまれました。

また、前の関東管領の上杉憲政も、和議のために景虎の子を連れて春日山へ向かう途中、景勝方に討たれています。誰の指示だったのかは、いまもはっきりしないようです。この時代にはもう、関東管領という職にほとんど意味はなくなっていたのでしょうね。

まとめ

御館の乱は、跡継ぎを決めないまま謙信が急死したことから始まりました。景勝はすぐに本丸と金蔵を押さえ、景虎は城下の御館にこもって実家の北条を頼ります。勝負を分けたのは、景虎を助けに来たはずの武田勝頼が景勝と結んだことでした。北条の援軍は雪に阻まれ、孤立した御館は落城。上杉憲政と道満丸は和睦に向かう途中で殺され、景虎は鮫ヶ尾城で裏切られて自害しました。上杉家を継いだ景勝の前には、傷ついた越後と、織田の大軍が待ち受けていました。

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