永禄4年(1561年)、越後の上杉謙信(当時は長尾景虎)は、関東の武将たちを率いて北条氏の本拠・小田原城を囲みました。その数は10万ともいわれます。しかし、小田原城はびくともせず、景虎は1か月ほどで兵を引きました。これが上杉謙信の小田原攻め(小田原城の戦い)です。「軍神」謙信でも落とせなかった小田原城。この記事では、謙信がなぜ関東に攻め込んだのか、そしてなぜ小田原城は落ちなかったのかを、わかりやすく解説します。
| いつ | 永禄4年(1561年)3月(前年8月に越後を出陣) |
|---|---|
| どこ | 相模国の小田原城(神奈川県小田原市)とその城下 |
| 誰と誰 | 長尾景虎(のちの上杉謙信)と関東の諸将 対 北条氏康・氏政 |
| 兵力 | 長尾方は関東の武将を合わせて10万ともいわれる(諸説あり)。北条方は小田原城に籠城 |
| 結果 | 小田原城は落ちず、約1か月で長尾軍が撤退 |
| この後 | 景虎は鶴岡八幡宮で関東管領を継ぎ「上杉政虎」と名乗る。同じ年の秋に第四次川中島の戦い |
上杉謙信の小田原攻めを3行でいうと
- 北条氏に追われた関東管領・上杉憲政の求めに応じて、長尾景虎が関東へ出陣した
- 関東の武将の多くが景虎に従い、10万ともいわれる大軍で小田原城を囲んだが、城は落ちなかった
- 景虎は撤退の途中、鎌倉の鶴岡八幡宮で関東管領を継ぎ、「上杉」の名を名乗ることになった
なぜ謙信は関東へ攻め込んだのか
関東では、16世紀の前半から北条氏が勢いを伸ばしていました。天文15年(1546年)の河越夜戦で北条氏康に大敗した関東管領・上杉憲政は、本拠の上野・平井城も追われ、越後の長尾景虎を頼って逃げてきました。
関東管領は、室町幕府が関東を治めるために置いた役職で、関東の武士たちのまとめ役です。憲政は景虎に「上杉の名字と関東管領の職を譲るから、北条を討ってほしい」と頼みました。景虎はこれに応え、永禄3年(1560年)8月、大軍を率いて三国峠を越え、関東へ入ります(越山)。
関東の武将たちが次々に味方に

関東に入った景虎のもとには、北条氏に不満を持つ関東の武将たちが次々に集まりました。上野・下野・武蔵・常陸・安房などの武将たち、たとえば岩付城の太田資正、忍城の成田長泰、安房の里見義堯の勢力などです。景虎は厩橋城(前橋城)で年を越し、翌永禄4年の春、小田原へ向けて南下しました。
このとき景虎に従った関東の武将の名前を記した「関東幕注文(かんとうまくちゅうもん)」という史料が、今も上杉家に伝わっています。
小田原城の包囲 — それでも落ちない城
3月、景虎の大軍は小田原城を囲みました。太田資正らは城の蓮池門のあたりまで攻め込んだと伝わり、城下の町は焼き払われます。
しかし北条氏康は、城にこもって打って出ませんでした。小田原城は大きく、兵糧も十分にあり、守りが固かったのです。一方、景虎の大軍は寄せ集めで、遠い越後から来た兵も、関東の武将たちの兵も、長く戦い続けるのは難しい状態でした。兵糧も足りなくなり、さらに甲斐の武田信玄が北信濃で動きを見せていました(信玄は北条氏と同盟を結んでいました)。景虎はおよそ1か月で包囲をとき、小田原を離れます。
鶴岡八幡宮で関東管領に — 成田長泰の逸話

閏3月、景虎は鎌倉の鶴岡八幡宮で、上杉憲政から上杉の名字と関東管領の職を受け継ぐ儀式を行いました。このとき景虎は「上杉政虎」と名乗ります(のちに輝虎、さらに出家して謙信)。
この儀式のとき、忍城主の成田長泰だけが馬から下りずにあいさつしたため、景虎が怒って扇で長泰の顔を打ち、恥をかかされた長泰は兵を連れて帰ってしまった、という話が伝わっています。成田家は藤原氏の流れをくむ名家で、先祖は源義家(八幡太郎)にも馬上で礼をすることを許された、と主張したというのです。この話がどこまで事実かはわかりませんが、関東の武将たちが景虎に心から従っていたわけではないことを示す話として、よく語られます。
その後 — 川中島、そして関東をめぐる長い戦い
越後に戻った景虎は、同じ年の秋、北信濃で武田信玄と激しく戦いました(第四次川中島の戦い)。その後も謙信は何度も関東へ出陣しますが、北条氏を倒すことはできず、関東の武将たちも北条と上杉の間で揺れ動き続けました。
小田原城は、この8年後には武田信玄にも囲まれますが、やはり落ちませんでした。小田原城が開城するのは、天正18年(1590年)、豊臣秀吉が全国の大名を動員した小田原征伐のときです。

上杉謙信の小田原攻めのゆかりの地
- 小田原城址公園(神奈川県小田原市):北条氏の本拠。現在の天守は江戸時代の小田原城を復元したもの
- 鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市):景虎が関東管領を継ぐ儀式を行った神社
- 前橋城跡(厩橋城)(群馬県前橋市):景虎が関東の拠点とし、年を越した城
- 春日山城跡(新潟県上越市):謙信の本拠。国の史跡
筆者のひとこと
筆者も小田原城を訪れましたが、まず水堀の幅の広さに驚きました。さらに当時の小田原城は、今の観光ではわからない「総構え」で、町全体を堀と土塁で囲んだ城塞でした。10万ともいわれる謙信の大軍でも落とせなかったのは、この町ぐるみの守りが大きかったのではないかと感じます。
この戦いに登場した主な武将(長尾・関東諸将)
この戦いに登場した主な武将(北条方)
※当サイトの合戦イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが場面や構図を指定して制作した想像図です。実際の布陣や装束をそのまま再現したものではありません。


































