はりう もりのぶ
| 地域 | 東北 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 蘆名一門(のち伊達家臣) |
| 大名家 | 蘆名氏→伊達氏 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀 |
| 衣装・甲冑 | 塗具足 |
| 武将タイプ | 一門・堅実 |
針生盛信(1553〜1625)は会津の蘆名氏の一門で、通称は民部(民部大輔)。蘆名家中で外交を担ったとされ、最後の当主・蘆名義広の家老を務めた。蘆名氏の滅亡後は伊達政宗に仕え、豊臣政権の石田三成とも親しかった。
目次
蘆名氏の一門
針生盛信は天文22年(1553)の生まれとされる。父は針生盛秋。通称は民部で、史料には民部大輔と見える。
蘆名氏は会津の黒川城(のちの若松城)を本拠とした大名で、盛氏の代に勢力を大きく広げた。
針生氏は会津の戦国大名・蘆名氏の分家である。盛信は蘆名氏14代盛滋の曾孫にあたるとされる。針生氏は蘆名家中で主に外交を担ったとされる。盛信は蘆名盛氏に重用されたが、重臣の金上盛備と権勢を争い、家中の分裂を招いたともいわれる。
蘆名義広の家老
蘆名氏の当主は、盛氏の後に短い間で何度も替わった。最後の当主は、常陸の佐竹氏から入った蘆名義広である。盛信は義広の家老を務めた。
天正17年(1589)、蘆名氏は摺上原の戦いで伊達政宗に敗れ、義広は会津を去った。摺上原は磐梯山の南麓、猪苗代湖の北に広がる原野である。蘆名氏はここで大名としては滅んだ。
伊達家臣として
蘆名氏の滅亡後、盛信は伊達政宗に仕えた。仕えた時期は、蘆名氏の滅亡直後とする説明と、奥羽仕置(1590年の豊臣秀吉による奥羽の領地処分)の後とする説明がある。
盛信は石田三成と親しかった。『伊達家文書』には、三成が「針(針生)民部太輔」に宛てた返書が残る。文禄4年(1595)の豊臣秀次切腹事件の際、政宗と三成の間の書状のやり取りにかかわったとされる。
寛永2年(1625)8月9日に没した。73歳。






































