櫛引清長 | 櫛引城主、九戸政実の乱で政実に味方

くしびき きよなが

地域陸奥国糠部郡(青森県八戸市)
所属勢力・属性南部一族・櫛引城主、九戸方
大名家南部氏(のち九戸政実に味方)
家紋―
主武器―
衣装・甲冑当世具足
武将タイプ猛将

櫛引清長は、陸奥の櫛引城(青森県八戸市)の城主である。櫛引氏は南部氏の一族とされる。天正19年(1591)の九戸政実の乱では、政実に次ぐ中心人物として戦ったが敗れ、櫛引氏は滅んだ。

目次

櫛引氏と櫛引城

櫛引氏は、南部氏の祖とされる南部光行の四男・宗朝の子孫を名のった家である。宗朝の流れは四戸氏と呼ばれ、櫛引氏はその分かれとされる。

櫛引城は、八戸市の馬淵川の東岸にある段丘の上に築かれた城である。本郭・外郭・出丸の三つの曲輪からなっていた。いつ築かれたかははっきりしない。

根城南部氏との争い

南部氏には、八戸の根城を本拠とする根城南部氏(八戸氏)と、三戸を本拠とする三戸南部氏があった。櫛引氏ははじめ根城南部氏に従ったが、のちに三戸南部氏の側についた。

永禄10年(1567)、櫛引弥六郎は名久井城主・東政勝の助けを得て根城を攻めた。しかし元亀2年(1571)には根城の南部政栄に攻められ、領地の一部を失った。櫛引氏はこのように、近くの根城南部氏と長く争っていた。

九戸政実の乱

天正18年(1590)、南部信直は豊臣秀吉に従い、南部家の当主として認められた。これに不満を持ったのが、同じ南部一族で力の強い九戸政実である。天正19年(1591)、政実は信直にそむいて兵を挙げた。

櫛引河内守清長は、弟の清政とともに政実に味方し、九戸城に入った。清長は政実に次ぐ中心人物と見られている。しかし豊臣方の大軍が九戸城を囲むと、政実はついに降伏した。

九戸政実の乱は、豊臣秀吉が天下統一をなしとげた後に起こった、東北地方での最後の大きな反乱の一つとされる。南部信直は自分の力だけでは政実を抑えきれず、豊臣政権に助けを求めた。

清長の最期と櫛引氏の滅亡

清長の最期には諸説ある。九戸城の戦いで討死したともいわれ、降伏したあと斬首されたともいわれる。弟の清政は、政実とともに降伏したのち斬首されたとされる。

こうして櫛引氏は滅び、櫛引城も主を失った。今の城跡は本丸が畑になっているが、東側には空堀が残り、戦国時代の城のすがたをしのぶことができる。

乱ののち、南部信直は豊臣政権のもとで南部家をまとめ、のちの盛岡藩の基礎をきずいた。櫛引氏の旧領も南部氏の支配のもとに入った。

ゆかりの地

  • 櫛引城跡(青森県八戸市櫛引字館神):櫛引氏の居城。馬淵川東岸の段丘に空堀が残る
  • 九戸城跡(岩手県二戸市):九戸政実の居城。清長が弟とともに籠城した

参考にした資料

櫛引清長とは

櫛引清長は、陸奥の櫛引城を本拠とした櫛引氏の当主です。

櫛引氏の終わり

九戸政実の乱が鎮められたのち、櫛引氏は滅びたと伝えられます。

評価

清長は、北奥州の国衆として南部家と争い、九戸政実の乱の中で家を失った人物です。

このイラストについて

このイラストは、陣を背に、槍を手にした清長を描いています。

鋭い目つきと力強い構えで、南部家と争った国衆の気迫を表しました。

背後の建物は、九戸政実の乱のころの北奥州の城をイメージしています。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

▶ あわせて読みたい:九戸政実の乱をわかりやすく解説

南部家

甲斐源氏の流れをくむとされ、陸奥北部の糠部郡を本拠とした家。南部晴政の代に勢力が最も広がったが、晴政の死後、跡継ぎをめぐって家中が割れた。

南部家の歴史と武将一覧を見る →

主家

家臣団

  • URLをコピーしました!

ほかの武将も見る

目次