藤堂高虎と宇和島城 ― 豊臣秀長を支えた築城名人が伊予に築いた海城

2026年の大河ドラマ「豊臣兄弟!」にも登場する藤堂高虎(とうどうたかとら)は、豊臣秀長に見出され、生涯に数多くの城を手がけた「築城の名人」として知られます。放送で特集された宇和島城も、その高虎が伊予に築いた海城でした。秀長の家臣としての出発点から、伊予・板島の大名、そして天下普請を担う築城名人へと駆け上がる歩みをたどります。

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秀長のもとで頭角を現す

高虎は弘治2年(1556年)、近江の生まれです。若い頃は主君を次々と替えましたが、天正4年(1576年)に羽柴秀長へ三百石で仕えたことが大きな転機になりました。三木合戦や紀州征伐、そして四国攻めなどで戦功を重ね、天正15年(1587年)の九州平定ののちには二万石の大名へと引き上げられます。豊臣秀長のもとで、武勇と実務の両面から厚い信頼を得ていったのです。

板島七万石の大名へ

天正19年(1591年)に秀長が世を去ると、高虎はその跡を継いだ甥の豊臣秀保に仕えます。ところが文禄4年(1595年)、秀保もわずか十七歳で早世してしまいました。主家を失った高虎はいったん出家して高野山に入りますが、その才を惜しんだ秀吉に説き伏せられて還俗し、五万石の加増を受けて伊予国板島(のちの宇和島)七万石の大名となります。秀長の死が、結果として高虎を独り立ちの大名へと押し出したのでした。

宇和島城――高虎が築いた海城

板島に入った高虎は、慶長年間に居城の板島丸串城を大規模に改修し、完成後に「宇和島城」と改めました。海と入り江に囲まれた地形を巧みに生かし、堀に海水を引き込む海城として設計されているのが最大の特徴です。上から見ると不等辺な五角形の縄張りで、攻め手に城の広さや形を誤らせる工夫が凝らされていたと伝わります。宇和島城は現存天守をもつ数少ない城の一つで、高虎の築城思想を今に伝える貴重な遺構となっています。

築城三名人と層塔式天守

高虎は黒田孝高(官兵衛)・加藤清正と並んで「築城三名人」に数えられます。とりわけ、各階を規則正しく積み上げていく層塔式天守を考案したとされ、工期と費用を抑えながら高い天守を建てるこの手法は各地へ広まりました。今治城や津城、伊賀上野城といった自らの居城のほか、大坂城を意識した徳川方の江戸城改築や篠山城などの天下普請でも中心的な役割を担い、その手腕は幕府から大いに頼りにされました。

七度も主君を替えた生き方

高虎は生涯に七度も主君を替えたと言われ、「渡り奉公人」の典型とも評されます。しかし実際には、仕えた主家が絶えるまで忠義を尽くし、次の主君のもとで再び頭角を現す――その繰り返しでした。関ヶ原では東軍として大谷吉継らと激戦を交え、戦後は所領を加増されて伊勢津藩二十二万石の祖となります。大坂の陣では、かつて主君と仰いだ秀長ゆかりの長宗我部盛親の軍と八尾・若江で激突しました。

大河ドラマで見る藤堂高虎

「豊臣兄弟!」で描かれる高虎は、まさに秀長という名補佐役に見出され、育てられた武将です。築城の才で天下人たちに重んじられ、時代の変わり目を巧みに生き抜いたその姿は、実直な秀長の物語に確かな厚みを加えます。宇和島城をはじめ高虎の築いた城を訪ねれば、ドラマの世界がいっそう身近に感じられるはずです。大和大納言・豊臣秀長の領国経営とあわせて読むと、秀長の家臣団の広がりが見えてきます。

各武将の生涯や関連する合戦・事件については、姉妹サイトでもくわしく解説しています。あわせてご覧ください。→ 戦国ヒストリー(姉妹サイト)

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