関ケ原の戦いの勝敗を決めた一手といえば、多くの人が小早川秀秋の裏切りを思い浮かべます。西軍として布陣していたはずの大軍が、東軍へ寝返って味方に襲いかかった。この一瞬で天下の行方は定まりました。では秀秋はなぜ、どのように裏切ったのか。近年の研究もふまえて見ていきます。
秀吉の縁者から、小早川家の当主へ
小早川秀秋は、豊臣秀吉の正室おね(北政所)の甥にあたります。幼くして秀吉の養子となり大切に育てられましたが、秀吉に実子の秀頼が生まれると、名門・小早川家へ養子に出されました。若くして筑前の大大名となったものの、豊臣家の中では微妙な立場に置かれた貴公子でした。
三成への遺恨という背景
通説では、秀秋は朝鮮出兵での働きぶりをめぐって石田三成に讒言され、一時所領を減らされたと伝わります。この遺恨が東軍へ傾く一因になったとされてきました。秀吉の死後、黒田長政ら東軍の調略も水面下で進み、秀秋の去就は関ケ原の最大の焦点になっていきます。
松尾山に陣取った「西軍」
慶長五年(一六〇〇)、秀秋は関ケ原を見下ろす松尾山に一万五千ともいわれる大軍で布陣しました。名目は西軍ですが、戦場全体を見渡せる要衝を押さえた位置取りは、どちらへ転んでも動けるものでした。西軍の大谷吉継は秀秋の裏切りを早くから警戒し、備えを固めていたといいます。
通説の裏切り ― 問鉄砲と日和見
よく知られた物語はこうです。秀秋は昼になっても動かず日和見を続けた。しびれを切らした家康が松尾山へ鉄砲を撃ちかけて催促し(問鉄砲)、これに驚いた秀秋がついに意を決して山を駆け下り、大谷隊へ襲いかかった――。長く語られてきた、迷い抜いた末の寝返りという筋書きです。
新説 ― 戦う前に勝負は決まっていた
ところが近年の研究では、この物語に疑問が投げかけられています。問鉄砲は後世の創作で、秀秋は開戦とほぼ同時に東軍として動いた、あるいは初めから東軍に立つことが固まっていた、という見方です。戦場での気まぐれな寝返りではなく、合戦が始まる前の調略と政治工作で勝負はすでに決していた。黒田長政らが積み上げた「戦う前の勝負」が、松尾山で形になったという理解です。実際、秀秋の家臣松野主馬は裏切りの軍法を拒んで戦場を去っており、寝返りが土壇場の思いつきでなかったことをうかがわせます。
裏切りの代償 ― 岡山五十一万石と早すぎる死
寝返りによって三成ら西軍は総崩れとなり、秀秋は勝者となりました。恩賞として備前・美作に五十一万石を得て岡山城主となります。しかし関ケ原からわずか二年後の慶長七年(一六〇二)、秀秋は二十一歳の若さで急死し、跡継ぎもなく小早川家は断絶しました。裏切りの汚名だけを残して消えた短い生涯は、勝者となってもなお報われぬ、関ケ原のもう一つの悲劇でした。
各武将の生涯や関連する合戦・事件については、姉妹サイトでもくわしく解説しています。あわせてご覧ください。→ 戦国ヒストリー(姉妹サイト)

