秀吉はなぜ淀城を築いたのか|茶々の産所と「淀殿」の名の由来、秀長の普請、淀古城の場所とアクセス【豊臣兄弟!第39回】

大坂城の奥御殿で書状を手にする茶々と、襖に映る男の影(イメージ)

大河『豊臣兄弟!』第39回「茶々の本心」の最後の語りでは、茶々の産所となる淀城の普請を秀長が担ったことが紹介されました。「淀殿」という呼び名は、この淀城に由来します。秀吉はなぜ茶々のために城を築いたのか。秀長はどのように関わったのか。そして淀城はいまどこにあり、どうすれば訪ねられるのか。この記事で順に解説します。

先に結論

  • なぜ築いた?:茶々が秀吉の子を身ごもったため、出産の場(産所)として天正17年(1589)に整えた
  • 誰が普請した?:秀吉の弟・秀長が普請を担当したことが『多聞院日記』からわかる
  • 淀殿の名の由来:この城で長男・鶴松を産み、城の名から「淀の方」などと呼ばれるようになった
  • いまどこに?:茶々の淀城(淀古城)は、京都市伏見区納所の妙教寺あたり。駅前の「淀城跡公園」は江戸時代に築かれた別の城
目次

秀吉はなぜ淀城を築いたのか

理由1:待望の子を産むための「産所」

天正17年(1589)、秀吉の側室となっていた茶々が子を身ごもりました。50歳を過ぎた秀吉にとって、これまで跡継ぎを得られなかったなかでの待望の懐妊です。秀吉は、茶々が安心して子を産める場所として、山城国の淀に城を整えさせました。淀城は、いわば茶々と生まれてくる子のための城だったのです。

理由2:京と大坂を結ぶ交通の要所

淀は、桂川・宇治川・木津川の三つの川が合わさる場所にあり、古くから京へ運ばれる物資が陸に揚げられる港町として栄えてきました。秀吉の政庁である京都の聚楽第と、本拠地の大坂城のちょうど中ほどにあたり、どちらからも川や街道で行き来しやすい場所です。秀吉が茶々と子のもとへ通うにも、守りを固めるにも、都合のよい土地でした。

理由3:大坂城の「奥」とは別の居場所

大坂城の奥向きは、正室の寧々(北政所)が取りしきる場所でした。茶々に別の城を用意したことについては、寧々への配慮や、生まれてくる子を手厚く守るためなど、いくつかの見方があります。はっきりした理由は記録に残っていませんが、側室のために城を一つ用意するのは異例のことで、秀吉が茶々の懐妊をどれほど大切にしたかがうかがえます。寧々が茶々をどう受け入れたのかは、寧々はなぜ茶々を側室に許したのかでも紹介しています。

秀長が淀城の普請を担った

淀城の普請を担当したのは、秀吉の弟・秀長でした。奈良・興福寺の僧が書いた日記『多聞院日記』に、秀長が淀城の普請に関わったことが記されています。秀長は大和郡山城の主として、大坂城の築城でも石や材木の調達を担った経験を持つ、豊臣家の普請の名手でした。

第39回で秀長は、兄に茶々を迎えるよう説きました。その秀長が、のちに茶々の産所となる城の普請を任されたことになります。ドラマはこの史実を手がかりに、秀長を「茶々を勧めた人」として描いたと考えられます(なぜ秀長は兄に茶々をめとるよう勧めたのか)。

「淀殿」の名はこの城から

天正17年(1589)5月、茶々は淀城で長男の鶴松を産みました。このころから茶々は、城の名をとって「淀の方」「淀の上様」などと呼ばれるようになります。のちに広まる「淀殿」という呼び名も、ここから来ています。なお「淀君」という呼び方は、江戸時代以降に広まったもので、茶々が生きていたころの呼び名ではありません。

鶴松はいったん大坂城に移りますが、のちに淀城に戻ったとされ、天正19年(1591)8月、わずか3歳で亡くなりました(鶴松はなぜ亡くなった?)。この年の1月には秀長も世を去っており、淀城は、豊臣家にとって喜びと悲しみの両方を見届けた城となりました。

淀城の年表

年 出来事
天正17年(1589) 茶々の産所として淀城が整えられる。普請は秀長が担当
天正17年(1589)5月 茶々、淀城で鶴松を産む。「淀の方」と呼ばれるように
天正19年(1591)1月 秀長が亡くなる
天正19年(1591)8月 鶴松、3歳で亡くなる
のち 伏見城が築かれたあと、淀城は廃城となる(「淀古城」と呼ばれる)
元和9年(1623)〜寛永2年(1625) 徳川秀忠の命で、松平定綱が約500メートル南に新しい淀城を築く
江戸時代〜幕末 新しい淀城は淀藩の城として、稲葉氏などが治める

注意!「淀城跡公園」は茶々の城ではない

京阪電車の淀駅のすぐそばにある「淀城跡公園」には、立派な天守台と本丸の石垣が残っています。ところがこれは、江戸時代の元和9年(1623)から寛永2年(1625)にかけて、徳川秀忠の命で松平定綱が築いた新しい淀城の跡です。

茶々が鶴松を産んだ秀吉の淀城は、そこから約500メートル北の納所(のうそ)にあったと考えられており、新しい城と区別して「淀古城」と呼ばれています。淀古城の遺構はほとんど残っておらず、妙教寺の境内に本丸があったと伝えられ、石碑が立っています。

淀城ゆかりの地 ― 場所とアクセス

場所 見どころ 所在地・アクセス
妙教寺(淀古城跡) 茶々の淀城の本丸があったと伝わる寺。境内に「淀古城址」の石碑 京都市伏見区納所北城堀。京阪本線「淀」駅から北へ徒歩15分ほど(目安)
淀城跡公園 江戸時代の淀城の天守台と本丸の石垣が残る。桜の名所 京都市伏見区淀本町。京阪本線「淀」駅から徒歩約5分
常念寺 淀殿の守り仏と伝わる観音像が観音堂に安置されている 京都市伏見区淀の納所・水垂地域

淀駅の周辺には京都競馬場があり、レースのある日は駅がたいへん混み合います。ゆっくり歩くなら、レースのない平日がおすすめです。寺院の拝観については、訪れる前に各寺へご確認ください。

よくある質問

Q. 秀吉はなぜ淀城を築いたのですか?

A. 秀吉の子を身ごもった茶々の出産の場(産所)とするためです。天正17年(1589)に整えられ、茶々はここで鶴松を産みました。

Q. 淀城を普請したのは誰ですか?

A. 秀吉の弟・豊臣秀長です。『多聞院日記』に記録があります。

Q. 淀殿の名前の由来は?

A. 淀城で鶴松を産んだことから、城の名をとって「淀の方」などと呼ばれるようになり、のちに「淀殿」の呼び名が広まりました。

Q. 淀城跡公園は淀殿の城ですか?

A. いいえ。淀城跡公園は江戸時代に築かれた別の城の跡です。淀殿の城(淀古城)は約500メートル北の納所、妙教寺のあたりにありました。

まとめ

淀城は、秀吉が待望の子を身ごもった茶々のために整えた「産所」の城でした。京と大坂の中ほど、三つの川が合わさる交通の要所に築かれ、その普請は秀長が担いました。茶々はここで鶴松を産み、城の名から「淀の方」と呼ばれるようになります。いまの淀城跡公園は江戸時代の別の城で、茶々の淀城は北の納所に石碑を残すのみ。訪れる際は、二つの淀城の違いを知っておくと、歩く楽しみがいっそう深まります。

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