黒田長政 ― 関ケ原を裏で動かした調略の武将|小早川を寝返らせ天下を家康にもたらした男

関ケ原の直前、陣中で書状を書き諸将を調略する黒田長政

関ケ原の戦いは、戦場での槍働きだけで決まったのではありません。戦いが始まる前から、味方を増やし敵を切り崩す情報戦が繰り広げられていました。その調略で東軍を勝利へ導いた立役者が、黒田長政です。名軍師黒田官兵衛(如水)の嫡男でした。

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名軍師・如水の子として

長政は、黒田官兵衛の跡を継いだ武将です。父ゆずりの知略に加え、朝鮮出兵などで武勇も鍛えられました。秀吉の死後、天下が揺れる中で長政が選んだのは徳川家康方につくこと。そして父から受け継いだ調略の才を、関ケ原の下ごしらえに惜しみなく注ぎ込みます。

戦う前に勝負を決めた調略

長政は親戚の平岡頼勝らを通じて、西軍の小早川秀秋や吉川広家に働きかけ、内応を取りつけていきました。さらに去就に迷う諸将と交渉し、福島正則ら有力大名を次々と東軍へ引き込みます。戦場での兵力だけでなく、誰が本当に戦うのかという「戦う前の勝負」を、長政は着実に固めていったのです。

小早川の裏切りと、島左近討ち取り

慶長五年(一六〇〇)の本戦。長政の調略どおり小早川秀秋が東軍へ寝返り、西軍は総崩れとなります。長政自身も石田三成の本陣へ猛攻を仕掛け、家臣の鉄砲隊が三成の名家老・島左近を側面から撃ち倒しました。裏方の工作と正面の武勇、その両輪で長政は戦いを動かしたのです。

家康が認めた「一番の功労者」

戦後、家康は長政の手を三度も押しいただき、関ケ原一番の功労者としてたたえたと伝わります。子々孫々まで罪を免じるという破格のお墨付きを与えられ、恩賞は筑前名島五十二万石余。長政は福岡藩初代藩主となりました。一大名から国持大名へ、一気に駆け上がったのです。

遺言状に込めた誇り

晩年、長政は長大な遺言状を残しました。そこには関ケ原での自らの働きが克明に記され、家康に天下をもたらしたという武士の誇りと、父・如水への敬愛がにじんでいます。番組でもこの遺言状に注目し、天下分け目を裏で動かした一人の武将の胸のうちが読み解かれています。

各武将の生涯や関連する合戦・事件については、姉妹サイトでもくわしく解説しています。あわせてご覧ください。→ 戦国ヒストリー(姉妹サイト)

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