くろだ かんべえ
| 地域 | 近畿・九州 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 豊臣・黒田氏 |
| 大名家 | 豊臣 |
| 家紋 | 藤巴 |
| 主武器 | 太刀・軍配 |
| 衣装・甲冑 | 朱塗如水兜・具足 |
| 武将タイプ | 天才軍師・深謀遠慮 |
黒田官兵衛(孝高)とは
黒田孝高(くろだ よしたか)は、「黒田官兵衛」あるいは剃髪後の号「如水(じょすい)」の名で広く知られる、戦国屈指の天才軍師である。豊臣秀吉に仕え、その卓越した知略と調略の才によって、秀吉の天下統一事業を頭脳の面から支え続けた。竹中半兵衛と並んで「両兵衛」と称され、秀吉軍の勝利の陰には、常に官兵衛の智謀があった。備中高松城の水攻めの献策、本能寺の変後の「中国大返し」の演出など、天下の帰趨を左右する場面で官兵衛は決定的な役割を果たした。
- 天文15年(1546年)、播磨に生まれる。小寺氏の家臣として姫路城を預かり、織田方につくよう主家を導いた
- 天正6年(1578年)、荒木村重の説得に向かって有岡城に約1年幽閉された。のち秀吉の参謀として中国攻め・九州攻めに活躍し、豊前中津の大名となった
- 家督を子の長政に譲って「如水」と号した。関ヶ原のときは九州で兵を挙げ、石垣原の戦いで大友義統を破った。慶長9年(1604年)没
あまりの切れ者ぶりに、主君・秀吉からは「自分の次に天下を取るのはこの男」と恐れられたとさえ伝わる。関ヶ原の際には九州で独自の電撃作戦を展開し、その野心をうかがわせた。本稿では、この稀代の軍師の生涯をたどっていく。
出自と秀吉への仕官
官兵衛は天文15年(1546年)、播磨国姫路に生まれた。黒田家は、播磨の小寺氏に仕える家柄であった。官兵衛は若くして家督を継ぎ、小寺氏の重臣として頭角を現した。当時の播磨は、東の織田信長と西の毛利氏という二大勢力の狭間にあり、去就の選択を迫られていた。官兵衛は、いち早く織田信長の将来性を見抜き、主家・小寺氏を織田方につけるよう主導した。
そして信長の家臣として中国方面を担当する羽柴秀吉のもとに属し、その参謀として仕えることになる。自らの居城・姫路城を秀吉に提供して中国攻めの拠点とするなど、官兵衛は早くから秀吉の天下取りに深く関与していった。秀吉は、官兵衛の非凡な知略をたちまち見抜き、深く信頼するようになる。
「両兵衛」──竹中半兵衛との並び称
秀吉の軍師といえば、官兵衛と並んで竹中半兵衛(重治)の名が挙げられる。二人は「両兵衛」と称され、秀吉の智嚢(ちのう)として活躍した。半兵衛は美濃出身の智将で、稲葉山城をわずかな手勢で乗っ取った逸話で知られる。半兵衛と官兵衛は、互いの才を認め合う間柄であった。とりわけ、後述する官兵衛の有岡城幽閉の際、半兵衛が官兵衛の息子・松寿丸(後の黒田長政)の命を救ったという逸話は、二人の友情を象徴する物語として名高い。惜しくも半兵衛は中国攻めの陣中で病没したが、その後は官兵衛が単独で秀吉の軍師としての役割を担い、天下統一を支えていくことになる。
有岡城の幽閉
官兵衛の生涯における最大の試練が、有岡城での幽閉であった。天正6年(1578年)、織田家の重臣・荒木村重が信長に反旗を翻すと、官兵衛は村重を翻意させるべく、単身で有岡城へ乗り込んだ。しかし村重は官兵衛を捕らえ、城内の牢に幽閉してしまう。官兵衛は、劣悪な環境の土牢に一年近くも閉じ込められた。この過酷な幽閉によって、官兵衛は足を痛め、生涯不自由な体となったと伝わる。一方、信長は官兵衛が寝返ったと誤解し、人質であった官兵衛の息子・松寿丸を殺すよう命じた。
この時、事情を察した竹中半兵衛が、松寿丸をひそかにかくまって命を救ったのである。やがて有岡城が落城すると、官兵衛は救出された。牢から出てきた官兵衛は、げっそりとやつれ、髪も抜け落ちていたと伝わる。死の淵をさまよう幽閉生活を耐え抜いた官兵衛は、この壮絶な経験を経て、人間の本質を見抜く深い洞察力を身につけたとも言われる。逆境が、天才軍師をさらに磨き上げたのである。息子・松寿丸が生きていたことを知った官兵衛の喜びは、いかばかりであったろうか。
中国攻めと備中高松城の水攻め
救出後の官兵衛は、秀吉の軍師として中国地方の毛利攻めに手腕を発揮した。調略によって敵の城を次々と開城させ、時には力攻めを、時には交渉を用いて、巧みに戦線を進めた。官兵衛の献策は的確で、秀吉は重要な判断の多くを官兵衛に委ねた。天正10年(1582年)の備中高松城攻めでは、官兵衛が城の周囲に堤防を築いて水を引き込む「水攻め」を献策したと伝わる。
低湿地にある高松城を水没させて孤立させるこの大胆な作戦は見事に成功し、城を落とす寸前まで追い込んだ。官兵衛の智略が、力攻めでは難しい堅城の攻略を可能にしたのである。この水攻めの最中に、天下を揺るがす大事件が起こる。
本能寺の変と「中国大返し」
天正10年(1582年)6月、本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれたとの報が、高松城攻めの陣中にもたらされた。この衝撃の報に呆然とする秀吉に対し、官兵衛は「ご運が開けましたな」と冷静に囁いたと伝わる。信長の死は、秀吉にとって天下取りの好機であると、官兵衛は瞬時に見抜いたのである。官兵衛は、動揺する秀吉を落ち着かせ、ただちに毛利氏と和睦を結ぶよう進言した。そして、驚異的な速さで軍を京へ返す「中国大返し」を演出した。この迅速な行動によって、秀吉は山崎の戦いで明智光秀を討ち、信長の後継者としての地位を一気に固めることができた。
天下の流れを決定づけたこの一連の采配は、官兵衛の智略なくしては成し得なかった。もっとも、「ご運が開けましたな」の一言は、秀吉に官兵衛の底知れぬ野心と切れ味を感じさせ、以後、秀吉は官兵衛を頼りにしつつも警戒するようになったとも伝わる。天才ゆえに恐れられる——官兵衛の非凡さが、かえって彼の出世を微妙に阻む要因となっていった。
天下統一を支えた名参謀
秀吉が天下人へと駆け上がる過程で、官兵衛は常にその傍らにあって知略を提供し続けた。四国平定、九州征伐、小田原征伐といった主要な戦いで、官兵衛は軍略や外交、築城の面で重要な役割を果たした。とりわけ九州征伐では、その調略の才を存分に発揮した。築城の名手としても知られ、官兵衛は各地の城の縄張り(設計)を手がけた。
後に豊臣秀吉が築いた大坂城の縄張りにも、官兵衛が関与したと伝わる。軍略・調略・外交・築城——あらゆる面で秀吉を支えた官兵衛は、まさに天下統一の立役者の一人であった。その功により、官兵衛は豊前国に十二万石余りを与えられ、中津城を本拠とする大名となった。
官兵衛を支えた黒田家臣団
官兵衛のもとには、「黒田二十四騎」と称される精強な家臣団が集った。なかでも後藤又兵衛(基次)は、豪勇無双の猛将として知られ、黒田家の武を支えた。また、母里太兵衛(もり たへえ、友信)は、大酒飲みとして知られ、福島正則から名槍「日本号(にほんごう)」を飲み取ったという逸話(黒田節の由来)で名高い。官兵衛は、こうした個性豊かで武勇に優れた家臣たちを巧みに束ね、その力を存分に発揮させた。
軍師としての智略に加え、優れた人材を見出し、統率する将としての器量をも備えていたのである。黒田二十四騎に代表される強力な家臣団は、官兵衛・長政父子の飛躍を支え、後の福岡藩の中核を担っていった。名軍師の下に、名家臣団あり——黒田家の強さは、この主従の結束にあった。
剃髪して「如水」へ
天下統一が成ると、官兵衛は家督を息子・長政に譲り、自らは剃髪して「如水」と号した。「如水」とは「水の如し」の意で、水のように形にとらわれず、しなやかに生きるという境地を表したものとされる。第一線を退いたかに見えた官兵衛だが、その智謀と野心は、なお衰えてはいなかった。隠居の身となってからも、如水は天下の情勢を鋭く見つめていた。秀吉に警戒され、思うように大領を得られなかった如水の胸中には、なお天下への野心がくすぶっていたとも言われる。その野心が最も鮮明に表れたのが、秀吉の死後に訪れた、関ヶ原の戦いの局面であった。
関ヶ原と九州電撃作戦
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、息子・長政は東軍の主力として活躍し、家康の勝利に大きく貢献した。一方、豊前中津にいた父・如水は、独自の行動に出る。手元にわずかに残った金銭で領内の百姓や浪人をかき集めて軍勢を仕立て、九州で挙兵したのである。如水の軍は、西軍方の諸城を次々と攻略し、驚異的な速さで九州の大部分を席巻していった。
この電撃的な九州制圧作戦の背後には、関ヶ原の戦いが長引く間に九州を平定し、あわよくば天下をうかがおうという、如水の遠大な野心があったとも言われる。老いてなお、天下を狙う気概を失わなかった如水の面目躍如たる行動であった。しかし、関ヶ原の本戦がわずか一日で決着してしまったため、如水の九州平定は途中で切り上げられることになった。もし関ヶ原がもっと長引いていれば、如水が天下取りの一角に食い込んでいたかもしれない——そう想像させるほど、その動きは鮮やかであった。
息子・長政が関ヶ原での戦功を家康に感謝された際、如水が「その時、お前の左手は何をしていたのか(なぜ家康を刺さなかったのか)」と問うたという逸話は、如水の底知れぬ野心を伝えるものとして名高い。
秀吉に恐れられた男
黒田官兵衛(如水)は、その並外れた知略のゆえに、主君・秀吉から恐れられた武将であった。秀吉は、家臣たちに「自分の死後、天下を取る者は誰か」と問われた際、前田利家や徳川家康の名が挙がるなか、「いや、官兵衛よ。あの男がその気になれば、たやすく天下を取るだろう」と答えたと伝わる。この秀吉の警戒ゆえに、官兵衛はその功績に見合うだけの大領を与えられなかったとも言われる。
天才であるがゆえに、その才を存分に振るう場を与えられない——官兵衛の生涯には、そうした皮肉がつきまとった。しかし、恐れられるほどの智謀を持ちながら、あえて剃髪して身を退き、野心を内に秘めて生きた如水の身の処し方には、水のごとき柔軟さがあった。危険を察して身を低くするその生き方こそ、乱世を生き抜く知恵であった。
「如水」に込めた処世の知恵
官兵衛が剃髪して名乗った「如水」の号には、彼の処世哲学が凝縮されている。水は、器の形に従って自在に姿を変え、低きに流れ、しかも岩をも穿つ強さを秘めている。天才ゆえに主君に警戒された官兵衛は、あえて身を低くし、野心を内に秘めて、水のようにしなやかに乱世を生き抜こうとしたのである。第一線を退き、如水と号して以降も、その智謀は健在であった。
関ヶ原の九州電撃作戦に見られるように、機が熟せば大胆に動く一方、危険を察すれば潔く身を引く。この静と動、野心と自制の絶妙な均衡こそ、官兵衛が乱世を生き延び、家を後世に残すことを可能にした知恵であった。才を誇って身を滅ぼす者が多いなか、官兵衛は才を秘めることで身を全うしたのである。息子・長政に家督を譲った後は、その後見役として黒田家の将来を見据えた。
関ヶ原で長政が家康方の勝利に貢献し、黒田家が大大名となる道筋をつけたのも、父・官兵衛の深謀があってのことであった。自らが天下人になることよりも、一族の繁栄を確実にすることを選んだところに、如水の現実的な知恵が表れている。
人物像と信仰
官兵衛は、冷静沈着で先を読む力に長けた、まさに軍師の典型ともいえる人物であった。一方で、家臣や領民には情け深く接し、豊前・筑前の統治においては善政を敷いたと伝わる。キリシタン大名としても知られ、洗礼を受けて「ドン・シメオン」の霊名を持っていた。信仰を通じて南蛮の文化や世界の情勢にも通じていた点は、官兵衛の視野の広さを物語る。如水は、蓄財にも長け、関ヶ原の際に浪人を雇う資金をたちどころに用意できたのも、日頃の備えあってのことであった。
合理的で計算高い一方、いざという時には大胆に打って出る——この静と動を兼ね備えたところに、官兵衛の真骨頂がある。慶長9年(1604年)、官兵衛は京都でその波瀾に満ちた生涯を閉じた。享年59。天下を狙いうる器量を持ちながら、天下人の座には就かなかった、稀代の軍師の死であった。
官兵衛ゆかりの地
官兵衛ゆかりの地は各地に残る。生誕の地とされる姫路には、官兵衛が拠点とし、後に秀吉に献上した姫路城がそびえる。大名として本拠を置いた豊前中津(大分県中津市)には、官兵衛が築いた中津城が残り、その事績を伝えている。そして、息子・長政とともに礎を築いた筑前福岡(福岡県福岡市)は、黒田家五十二万石の城下町として発展し、今日の福岡市の起源となった。
福岡の地名は、黒田家ゆかりの備前福岡(岡山県)にちなんで名づけられたと伝わる。官兵衛が知略によって切り開いた道は、これらの地に城下町という形で刻まれ、今も多くの人々の暮らしの舞台となっているのである。
後世の評価
黒田官兵衛(如水)は、竹中半兵衛と並ぶ戦国最高の軍師として、今なお絶大な人気を誇る。その知略と、秀吉に恐れられた野心、そして水攻めや中国大返しといった数々の名采配は、後世の人々の想像力を強くかき立ててきた。官兵衛を主人公とした大河ドラマも制作され、その知名度は全国的にきわめて高い。官兵衛が礎を築いた黒田家は、息子・長政の代に筑前福岡五十二万石の大大名となり、福岡藩として幕末まで栄えた。
福岡の地は、官兵衛・長政父子が築いた城下町を起源とする。当データベースでも、主君・豊臣秀吉、盟友・竹中半兵衛、そして関ヶ原で活躍した息子・黒田長政など、官兵衛ゆかりの武将のページを収録している。彼らとの関わりをたどれば、天才軍師・黒田官兵衛が生きた時代が、いっそう鮮やかに見えてくるだろう。
天下に最も近づいた軍師
黒田官兵衛は、しばしば「天下を狙える器量を持ちながら、天下を取らなかった(取れなかった)男」として語られる。その知略は同時代の誰よりも鋭く、秀吉さえも恐れさせた。もし官兵衛が野心のままに動いていれば、あるいは天下人の一人に名を連ねていたかもしれない——そう思わせるだけの実力を、官兵衛は確かに備えていた。しかし官兵衛は、時代の巡り合わせと、天才ゆえに警戒されるという宿命によって、天下人の座には届かなかった。それでも、秀吉の天下統一を影で支え、関ヶ原では一時九州を席巻し、そして黒田五十二万石を子孫に遺した官兵衛の生涯は、決して不遇なものではない。
むしろ、才を秘めて身を全うし、一族の繁栄を確実にしたその生き方は、乱世を生き抜く知恵の一つの到達点であった。智謀によって天下の趨勢を幾度も動かしながら、自らは表舞台の頂点に立たなかった軍師・黒田官兵衛。その謎めいた魅力と底知れぬ知略は、四百年を経た今も、多くの人々を惹きつけてやまない。竹中半兵衛とともに「両兵衛」と並び称され、水攻めと中国大返しで天下を動かし、秀吉に恐れられた稀代の智将・黒田官兵衛。その名は、日本史上もっとも優れた軍師の一人として、これからも語り継がれていくに違いない。
逆境の幽閉を耐え抜き、才を秘めてしなやかに乱世を渡り、一族に大きな未来を残した官兵衛の生き方は、知恵とは何か、そして真の強さとは何かを、時代を超えて私たちに問いかけている。播磨の一国人の家臣から身を起こし、二人の天下人に仕え、みずからも天下をうかがった黒田官兵衛の生涯は、まさに戦国乱世の縮図であった。その智と野心の物語は、いつの時代も色あせることがない。
黒田官兵衛をめぐる人物
ゆかりの地
- 姫路城(兵庫県姫路市):官兵衛が小寺氏の家臣として預かり、のちに秀吉へ譲った城
- 有岡城跡(兵庫県伊丹市):官兵衛が幽閉された荒木村重の城
- 中津城(大分県中津市):豊前に入った官兵衛が築いた城。今の天守は昭和の模擬天守
- 崇福寺(福岡市博多区):福岡藩主黒田家の墓所。如水の墓がある
この人物をもっと知る本
- 【評伝】小和田哲男『黒田如水 ― 臣下百姓の罰恐るべし』(ミネルヴァ日本評伝選):官兵衛の生涯を史料に沿ってたどる本格的な評伝
- 【新書】渡邊大門『黒田官兵衛 ― 作られた軍師像』(講談社現代新書):後世に作られた「天才軍師」像と実像の違いを読み解く
- 【歴史小説】司馬遼太郎『播磨灘物語』(講談社文庫):官兵衛を主人公にした長編小説










































