亀井茲矩 | 尼子再興軍から秀吉の家臣へ。琉球守を自称し、因幡鹿野藩主として海外貿易や用水路開発(亀井用水)を推し進めた異才

亀井茲矩

かめい これのり

地域中国
所属勢力・属性尼子・豊臣系
大名家尼子
家紋九曜
主武器太刀・朱印状
衣装・甲冑塗具足
武将タイプ野心・海外志向

尼子再興軍から秀吉の家臣へ。「琉球守」を自称し、因幡鹿野藩主として海外貿易や用水路開発(亀井用水)を推し進めた異才。

3行でわかる亀井茲矩
  • 弘治3年(1557年)、出雲国の尼子家臣・湯氏に生まれる。山中鹿介らとともに尼子家再興を目指して戦った
  • 秀吉に仕え、天正9年(1581年)の鳥取城攻めの功で因幡鹿野城主に。秀吉から「琉球守」を許されたという逸話で知られる
  • 関ヶ原では東軍につき鹿野藩3万8千石の大名に。干拓や朱印船貿易を進めた。子孫は石見津和野藩主となった
目次

琉球守を夢見た・亀井茲矩

亀井茲矩(かめい これのり)は、尼子再興軍から身を起こして豊臣秀吉の家臣となった武将です。「琉球守」を自称し、因幡鹿野藩主として海外貿易や用水路の開発(亀井用水)を推し進めた、異才の大名として知られます。

尼子再興軍から秀吉へ

亀井茲矩は、はじめ山中幸盛(鹿介)らとともに、滅んだ尼子氏の再興を目指して戦いました。尼子再興の夢が潰えたのち、彼は羽柴秀吉に仕え、その武功によって因幡(現在の鳥取県東部)に所領を得ます。

「琉球守」の夢

亀井茲矩は、海の向こうへの強い関心を抱いた、進取の気性に富む人物でした。秀吉から「琉球守」の官途を許されたとも伝えられ、朱印船を仕立てて海外貿易に乗り出すなど、当時としては珍しい海外志向の大名でした。

領国の開発

亀井茲矩は、領国の経営にも力を注ぎました。とりわけ亀井用水と呼ばれる用水路の開発を進め、新田の開発や農業の振興を図ります。亀井茲矩の生涯は、尼子再興軍から身を起こし、海外貿易と領国開発に情熱を注いだ、異才の大名の姿を今に伝えています。

尼子家再興を目指して

茲矩は出雲国湯之荘(松江市玉湯町)の尼子家臣・湯永綱の子に生まれた。尼子氏が毛利氏に滅ぼされたのち、山中鹿介(幸盛)らとともに尼子勝久を立てて尼子家の再興を目指す。尼子家の重臣・亀井秀綱の娘を妻とし、亀井の名跡を継いだ。妻は鹿介の養女とされ、鹿介は茲矩にとって岳父にあたる。

秀吉に仕え、鹿野城主に

尼子再興軍は織田信長・羽柴秀吉を頼ったが、天正6年(1578年)の上月城の戦いで勝久は自害し、鹿介も殺された。茲矩はその後も秀吉に仕え、天正9年(1581年)の鳥取城攻めで功を立てて、因幡の鹿野城主(1万3千石余り)となった。

秀吉が毛利氏と和睦したとき、恩賞に何を望むかと聞かれた茲矩は「琉球国を」と答え、秀吉は「亀井琉球守殿」と書いた扇を与えたという。これは伝承として知られる話である。

鹿野の町づくりと朱印船貿易

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍につき、加増されて鹿野藩3万8千石の大名となった。茲矩は鹿野で干拓や用水づくりなどの開発を進め、東南アジアへ朱印船を送る海外貿易にも乗り出した。

慶長17年(1612年)に鹿野で亡くなった。子の政矩は元和3年(1617年)に石見の津和野へ移され、亀井家は津和野藩主として明治まで続いた。茲矩の墓は、鳥取市気高町の武蔵山にある、高さ3メートルを超えるオベリスク形の珍しい墓碑である。

亀井茲矩をめぐる人物

ゆかりの地

  • 鹿野城跡公園(鳥取市鹿野町):茲矩の居城跡。石垣と堀が残り、城下町の町並みも見どころ
  • 幸盛寺(鳥取市鹿野町):茲矩が山中鹿介の菩提を弔うために移した寺。鹿介の墓がある
  • 亀井茲矩墓(鳥取市気高町山宮):国の史跡「津和野藩主亀井家墓所 附 亀井茲矩墓」の一部。オベリスク形の珍しい墓碑
  • 永明寺(島根県津和野町):津和野藩主・亀井家の菩提寺

この人物をもっと知る本

  • 【評伝】砂川博『因幡鹿野城主 亀井茲矩 ― 尼子家再興運動から「琉球守」拝領まで』(岩田書院):茲矩の生涯を地域史の視点からたどる
  • 【歴史小説】岩井三四二『亀井琉球守』(角川文庫):「琉球守」を名乗った茲矩の夢を描く小説
トップカルチャーBOOKSTORE
¥4,290 (2026/09/25 19:45時点 | 楽天市場調べ)
尼子家

主家

家臣団

山中鹿介牛尾幸清
  • URLをコピーしました!

ほかの武将も見る

目次