戦国時代、三河の吉良家は徳川家康と戦って敗れ、領地を失いました。ところが江戸時代になると、吉良家は幕府の儀式を取り仕切る「高家」として重んじられ、その家から忠臣蔵で知られる吉良上野介義央が出ます。家康に敗れた家が、なぜ幕府の中枢近くで生き残れたのか。戦国から江戸への吉良家の流れをたどります。
- 吉良家は戦国時代に家康と戦って領地を失ったが、吉良義定が家康に仕えて3000石の旗本として家を再興した
- 義定の子・義弥は慶長13年(1608年)に高家となった。足利一門という家柄が、幕府の儀式を担う役目に生かされた
- 義定 → 義弥 → 義冬 → 義央と続き、4代目の上野介義央は高家肝煎を務めた。地元の三河吉良では名君として語り継がれている
家康に敗れた名門
永禄4年(1561年)、今川方の吉良義昭は松平元康(徳川家康)に敗れて東条城を明け渡し、永禄7年(1564年)には三河一向一揆に加わって再び敗れ、三河を去りました。戦国大名としての吉良家は、ここで終わります(「戦国時代の吉良家とは」参照)。
しかし、吉良家の血筋そのものが絶えたわけではありませんでした。義昭の兄・義安は家康から東条・西条をあわせて治めることを許され、その子・義定が家康のもとで家を立て直すことになります。
吉良義定の再興
義安の子・吉良義定(1564〜1627年)は家康に仕え、吉良家を3000石の旗本として再興しました。母は家康の祖父・松平清康の娘とする系図があり、それに従えば義定は家康の従兄弟にあたります(辞典などでは確かめられていない説です)。
慶長5年(1600年)、義定は父の菩提を弔うため、吉良荘に華蔵寺を建てました。同じ年、子の義弥は三河国幡豆郡の吉良荘のうちに3000石を与えられています。吉良家は、先祖以来の土地に戻ったのです。
高家とは ― 家柄が生きる役目
江戸幕府には「高家」という役職がありました。朝廷への使い、勅使の接待、将軍家の儀式や典礼などを取り仕切る役目です。室町幕府以来の名家の出身者が選ばれ、石高は大名に及ばない旗本でも、官位は大名並みに高く与えられました。
高家の始まりは、慶長8年(1603年)に家康が征夷大将軍に任じられた際、その儀式を大沢基宿が取り仕切ったことにあるとされます。吉良義弥は慶長13年(1608年)に高家となり、従五位下・侍従に任じられました。「高家」という職名が定着するのは、もう少しあとの寛永年間です。
戦国の世では役に立たなかった「足利一門の名門」という家柄が、天下が治まり、儀式と格式が重んじられる時代になって、ふたたび価値を持ったのです。
義定から上野介義央まで
- 吉良義定(1564〜1627年):家康に仕えて家を再興
- 吉良義弥(1586〜1643年):慶長13年(1608年)に高家となる
- 吉良義冬(1607〜1668年):高家。石高は4000石
- 吉良義央(1641〜1703年):高家肝煎。三河と上野にあわせて4200石。通称は上野介
義央の母は酒井忠勝の弟・酒井忠吉の娘、妻は米沢藩主・上杉定勝の娘です。義央の長男・綱憲は上杉家に養子に入り、米沢藩主となりました。吉良家は、名家としての格式と大名家との縁組みによって、幕府の中で確かな地位を築いていきます。
地元・三河吉良での上野介
元禄14年(1701年)、江戸城・松の廊下で赤穂藩主の浅野内匠頭に斬りつけられた事件と、翌年末の赤穂浪士の討ち入りによって、義央は忠臣蔵の敵役として広く知られるようになりました。
一方、領地のあった三河の吉良(西尾市吉良町)では、義央は領民を思う名君として語り継がれています。義央が領民とともに一夜で築いたと伝わる「黄金堤」は、水害を防いで田を守ったことからその名がついたとされます(一夜で築いたという部分は伝承です)。華蔵寺には、義央が自ら彩色したと伝わる木像が残り、愛知県の文化財に指定されています。
吉良家のその後
討ち入りのあと、義央の孫で養子となっていた義周は所領を没収され、信濃の諏訪藩に預けられて、その地で亡くなりました。こうして三河の吉良家は断絶します。
しかし吉良の名は消えませんでした。関東にいたもう一つの吉良氏、世田谷吉良氏の子孫で、蒔田を名乗っていた家が、のちに吉良の姓に戻ることを許されたのです(吉良頼康のページ参照)。
まとめ
- 戦国時代の吉良家は家康に敗れたが、吉良義定が家康に仕えて旗本として再興した
- 子の義弥が慶長13年(1608年)に高家となり、足利一門の家柄が幕府の儀式を担う役目に生かされた
- 義定 → 義弥 → 義冬 → 義央と続き、上野介義央は高家肝煎を務めた
- 地元の三河吉良では、義央は黄金堤の伝承などとともに名君として語られている


















