豊後の竹田にある岡城は、断崖の上に石垣がそびえる名城として知られています。この城の名を天下に広めたのが、天正14年(1586)の岡城の戦いです。九州をほぼ手中にした島津家の大軍が豊後に攻め込み、大友家の城が次々と落ちるなか、20歳ほどの若い城主・志賀親次はわずかな兵で岡城にこもり、名将島津義弘の軍を何度もはね返しました。父までが島津方についたなかで、なぜ親次は戦い抜けたのか。戦いの流れを追いながら、わかりやすく解説します。
岡城の戦いは、豊薩合戦のなかで、島津義弘の率いる約3万ともいわれる軍勢が、志賀親次の守る岡城(大分県竹田市)を攻めた戦いです。親次の兵は1,000〜1,500ほどだったと伝わります。
岡城は三つの川と断崖に囲まれた天然の要害で、親次は城を守るだけでなく、城外に打って出て島津軍の背後をおびやかしました。島津軍はとうとう岡城を落とせず、親次はその功で豊臣秀吉から褒状を受けました。敵の義弘からも「楠木正成の再来」とたたえられたと伝わります。
| いつ | 天正14年(1586)10月〜天正15年(1587)3月ごろ |
|---|---|
| どこ | 豊後国直入郡の岡城(いまの大分県竹田市)とその周辺 |
| 対立 | 志賀親次(大友方・岡城主)× 島津義弘・新納忠元(島津軍) |
| 兵力 | 志賀方は1,000〜1,500ほど、島津方は約3万と伝わる |
| 結果 | 岡城は最後まで落ちず。島津軍は豊臣軍の九州入りを前に豊後から撤退 |
| この後 | 親次は秀吉から褒状を受ける。しかし文禄2年(1593)に主家の大友家が改易され、岡城を去る |
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岡城の戦いに登場する主な武将
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岡城とはどんな城か
岡城は、大野川の支流である稲葉川と白滝川(玉来川)にはさまれた、高さ80メートルほどの台地の上に建つ城です。まわりは切り立った崖で、攻め手が近づける道はかぎられていました。伝承では、平安時代の終わりに緒方惟栄(これよし)が、兄の頼朝に追われた源義経を迎えるために築いたといわれます。南北朝時代からは、大友家の一族である志賀家がこの城を拠点に直入郡を治めていました。

いま見られる高い石垣は、戦いのあとに入った中川家が築いたものです。親次の時代の岡城は、石垣よりも、崖と堀切、土塁を組み合わせた山城でした。それでも、地形そのものが巨大な堀のような役割を果たしていたのです。


若き城主・志賀親次と、寝返った父
志賀親次は永禄9年(1566)ごろの生まれと考えられ、若くして志賀家の家督を継ぎました。洗礼名をドン・パウロというキリシタンでもあります。
天正14年10月、島津軍が豊後に攻め込むと、大友家の家臣たちの多くは戦わずに島津方につきました。そのなかには、親次の父とされる志賀親度もいました。親度は入田義実らとともに島津軍の道案内をつとめ、つまり父が敵を案内して、息子の城に攻め寄せるという形になったのです。祖父の志賀親守も含めて志賀家の中が割れるなか、親次は大友家にとどまる道を選びました。島津方からは何度も降伏をすすめられましたが、キリスト教を禁じる島津家に従うことは、信仰の面からも受け入れられなかったといわれます。
戦いの流れ① 島津軍、肥後口から豊後へ ― 天正14年10月
島津義弘は約3万の軍を率いて、肥後から阿蘇の山あいを越え、豊後南西部の直入郡・大野郡に入りました。寝返った家臣たちの案内もあって、片ヶ瀬城・田中城・小牧城など、周辺の城は次々に島津の手に落ちます。
しかし岡城だけは違いました。親次は1,000〜1,500ほどの兵とともに城にこもり、島津軍を待ち受けます。義弘は城の近くに本陣を置き、城を囲みました。
戦いの流れ② 断崖の城を攻めあぐねる島津軍
島津軍は岡城に何度も攻めかかりましたが、崖をよじ登ろうとする兵は上から鉄砲や矢、石を浴び、城に取りつくことができませんでした。城を囲む川を渡ろうとすれば、そこでも城方の攻撃を受けます。地元に伝わる話では、親次は白滝川の河原でも島津軍と戦い、これを撃退したといいます。

大軍を相手にしても、守りの固い一点に兵を集めて攻めれば、攻め手の犠牲ばかりがふくらみます。島津軍は三度にわたって攻撃をかけましたが、いずれも親次に退けられたと伝わります。こうして義弘は、岡城を力攻めで落とすのはむずかしいと判断し、作戦を変えていきました。
戦いの流れ③ 支城をめぐる攻防 ― 駄原城の「留守の火縄」
義弘は岡城に押さえの兵を残し、そのまわりにある支城を先に落として、岡城を孤立させようとしました。ところが、ここでも志賀方の抵抗にあいます。
よく知られているのが、岡城の支城・駄原城(だばるじょう)の戦いです。この城を守っていたのは、親次の家臣の朝倉一玄でした。島津の将・逆瀬豊前守(坂瀬とも)の軍勢が迫ると、一玄はわざと城を明け渡すように見せかけて退き、島津軍が城に入ったところで城が燃え上がるように仕掛けたといわれます。「留守の火縄」と呼ばれるこの仕掛けがどのようなものだったのかは、くわしい記録が残っていません。燃える城に入った島津軍は、引き返してきた一玄の兵と、岡城から駆けつけた志賀方の援軍に三方から攻め立てられ、逆瀬豊前守は討ち取られました。
騎牟礼城(きむれじょう)の攻略にも、島津軍は失敗しています。岡城のまわりで、島津軍は思うように地歩を固めることができませんでした。
戦いの流れ④ 城を出て戦う親次 ― 島津本隊の足止め
親次は、ただ城にこもって耐えるだけではありませんでした。少数の兵を率いて城の外に出ては、島津軍の陣や補給の列を襲い、すぐにまた城へ引き上げる戦い方をくり返します。いまでいうゲリラ戦です。
このため義弘の本隊は、岡城の近くから動きにくくなりました。豊後の北の玖珠郡などを平定するために、義弘は新納忠元に別働隊を任せなければならなかったといわれます。島津軍の主力が岡城に引きつけられていたことは、ほかの大友方の城が持ちこたえる助けにもなりました。
一方、南から攻め込んだ島津家久の軍は、12月の戸次川の戦いで豊臣方の援軍を破り、大友家の本拠・府内を占領します。豊後の多くが島津の手に落ちるなかで、岡城は島津軍の背後に残る大きなとげであり続けました。
戦いの流れ⑤ 秀吉の褒状と、島津軍の撤退 ― 天正15年
親次の奮戦は、大坂の秀吉のもとにも届きました。天正15年(1587)正月3日付けで、秀吉は親次に褒状(手柄をたたえる書状)を送っています。のちに親次が大坂城を訪れた際、秀吉は大友家の筆頭の重臣よりも上の席に親次を座らせて、その働きをほめたたえたという話も伝わります。
3月、豊臣秀長の大軍が豊前・豊後に入ると、島津軍は豊後から本国へ引き揚げを始めました。親次はこの撤退する島津軍を追撃し、損害を与えたといわれます。南の佐伯でも、佐伯惟定が同じように退く島津家久の軍を追っています。岡城は、とうとう一度も落ちることなく戦いを終えました。
敵の義弘は、親次の戦いぶりを南北朝時代の名将・楠木正成になぞらえたと伝わり、親次は「天正の楠木」と呼ばれることになります。
なぜ岡城は落ちなかったのか
| 理由 | 内容 |
|---|---|
| 地形 | 三つの川と断崖に囲まれ、攻め手が近づける道が少なかった |
| 城主の決意 | 父が寝返るなかでも大友方を貫き、降伏の誘いを退けた。信仰の面でも島津に従えなかった |
| 攻めの守り | 城にこもるだけでなく、城外に出て島津軍を襲い、本隊を足止めした |
| 支城の働き | 駄原城の朝倉一玄など、家臣たちが周辺の城で島津軍を打ち破った |
| 時間 | 持ちこたえるうちに豊臣軍が九州に入り、島津軍は撤退せざるをえなくなった |
岡城の戦いのその後
九州平定のあと、親次は大友家の中で大きな発言力を持つようになりました。しかし文禄2年(1593)、朝鮮出兵での失態をとがめられて主君の大友義統が改易されると、親次も岡城を去ることになります。この失態のきっかけをつくったのが親次だったとする話もあり、その評価は一様ではありません。
岡城には文禄3年(1594)、播磨から中川秀成が入り、総石垣の城へと大きく造り替えました。いま見られる岡城の姿は、この中川家の時代のものです。明治の初めに廃城となり、のちに滝廉太郎の「荒城の月」の着想を得た城の一つとしても知られるようになりました。
親次自身は浪人となりましたが、その後は蜂須賀家政に仕え、さらに福島正則、小早川秀秋、ふたたび福島正則、そして毛利輝元と、主君を替えながら各地の大名に仕えたと伝わります。95歳ほどまで生きたといわれ、墓は山口県宇部市の小野地区に残り、子孫もこの地に続いています。島津の大軍を退けた名将の腕は、主家を失ったあとも諸大名に求められたのでしょう。
まとめ
岡城の戦いは、天正14年から15年にかけての豊薩合戦のなかで、志賀親次がわずかな兵で岡城を守り抜き、島津義弘の大軍を退けた戦いです。断崖の城という地形、父が寝返っても揺るがなかった城主の決意、城外に打って出る戦い方、そして家臣たちの奮戦が重なり、岡城は一度も落ちることがありませんでした。豊臣秀吉が九州に大軍を送るまでの時間を稼いだこの戦いは、のちの九州征伐の成功を陰で支えた戦いでもありました。



































