天正14年(1586)10月、豊臣秀吉は実の母・なか(大政所)を三河の岡崎へ送りました。名目は「家康に嫁いだ娘のあさひを見舞うため」。しかし実際には、徳川家康を大坂へ上洛させるための人質でした。では、その「見舞い」の相手だったあさひは、このとき本当に病気だったのでしょうか。それとも、兄の秀吉から「そのようにふるまえ」と言い含められていたのでしょうか。大河ドラマ『豊臣兄弟!』第41回「家康の野望」で描かれる場面の裏側を、わかっていることと、わかっていないことに分けて考えます。
天正14年の時点で、あさひが病気だったことを示すはっきりした記録は見当たりません。また「見舞い」という言葉は、病気の人をたずねることだけでなく、離れて暮らす身内の様子をうかがう訪問全般にも使われました。母が嫁いだ娘をたずねるのに、娘の病気は必ずしも必要なかったのです。
秀吉があさひに「病気のふりをせよ」と命じた密書のような史料も、知られていません。ただ、岡崎では、あさひが母と対面したことで「本当に秀吉の母が来た」と徳川方が納得したという話が伝わっており、あさひがこの人質の交換で大事な役目を果たしたことはたしかです。
この話に登場する人びと
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「見舞い」という名目 ― 何と説明されたのか
天正14年5月、秀吉の妹のあさひは、夫と別れて家康の正室となりました(第40回「あさひの輿入れ」)。それでも家康は上洛しようとしません。そこで秀吉は、9月に母のなかを三河へ下らせると伝え、これを受けて家康もついに上洛を決めます。
このときの名目は、「嫁いだ娘のあさひに会いに行く」というものでした。天下人の母が、和睦したばかりの相手の領地へ、わざわざ人質として出向くとは言えません。娘をたずねる母の旅という形をとれば、秀吉の面目も保たれ、家康の側も「人質を取った」と言われずにすみます。名目とは、双方の顔を立てるための言いかえでもあったのです。
江戸幕府がまとめた家康の逸話集『徳川実紀』の附録でも、秀吉が妹を嫁がせたうえに母の大政所までも岡崎へ下して上洛をうながした、と書かれています。ここにも、あさひが病気だったという話は出てきません。
そもそも「見舞い」とは
いまの私たちは「見舞い」と聞くと、病院へ病人をたずねる姿を思い浮かべます。しかし本来の「見舞い」は、もっと広い意味の言葉でした。災難にあった人を慰めに行くこと、戦場の陣中に差し入れをすること(陣中見舞い)、離れて暮らす身内のもとへ様子をうかがいに行くことも、みな「見舞い」です。
そう考えると、母のなかが嫁いだ娘をたずねる旅を「見舞い」と呼んでも、少しも不自然ではありません。あさひが病気でなくても、名目は十分に成り立ったのです。
あさひは病気だったのか ― わかっていること
| 時期 | あさひのようす | 記録の確かさ |
|---|---|---|
| 天正14年(1586)5月 | 44歳で浜松に嫁ぐ。150人余りの行列だったと伝わる | 婚礼の段取りは徳川家臣の日記などに残る |
| 天正14年10月 | 岡崎で母のなかと対面したと伝わる | 後世の記録・伝承による。病気の記述は見当たらない |
| 天正14年12月 | 家康とともに駿府へ移り、「駿河御前」と呼ばれる | 移ったこと自体は確か |
| 天正16年(1588) | 母の病気を見舞うために上洛する | このとき病気だったのは母のなかのほう |
| 天正18年(1590)1月 | 京の聚楽第で亡くなる。48歳 | 徳川家の系譜類に記録がある |
あさひは嫁いでから4年ほどで亡くなっているため、もともと体が丈夫でなかったのではないかと見る人もいます。ただ、それは後の結果から振り返った見方で、天正14年の秋の時点であさひが病の床にあったことを示す記録は、筆者の調べた範囲では見当たりませんでした。
逆向きの「見舞い」 ― 2年後、病の母をたずねたあさひ
興味深いのは、2年後の天正16年(1588)に、今度はあさひのほうが「見舞い」に出かけていることです。このとき病に伏せっていたのは母のなかでした。秀吉は母の回復を願って寺社に祈らせたほどで、この病気は本物だったと考えられます。
あさひは母を見舞うために京へのぼり、そのまま駿府へは戻らずに、天正18年に聚楽第で亡くなりました。1586年には「娘の見舞い」を名目に母が三河へ下り、1588年には本当に病気の母を娘が京へ見舞った。同じ「見舞い」という言葉が、2年をへだてて母と娘のあいだを行き来しているのです。
秀吉からの「密命」はあったのか
では、秀吉があさひに「母を迎えるために、病気のふりをせよ」といった密命を送っていた可能性はあるのでしょうか。
結論からいえば、そうした書状や記録は知られていません。ただし、あさひがこの人質の交換で、ただ待っていただけではなかったことはうかがえます。岡崎に着いた老女が本当に秀吉の母なのか、徳川方には確かめる手だてがありませんでした。そこであさひが対面し、母と娘が再会を喜ぶようすを見て、徳川の家臣たちもようやく本人だと納得した、という話が伝わっています。

つまりあさひは、人質が「本物」であることを証明する、いわば生き証人の役目を果たしたことになります。人質としての母と、正室としての娘がそろってはじめて、秀吉の差し出した「保証」は完成したのです。あさひがその役目をどこまで自覚していたのか、兄から何か言い含められていたのかは、史料からはわかりません。
筆者のひとこと
ここからは、史料ではなく筆者の想像です。秀吉という人は、相手の心を動かすための演出を好みました。大坂城で家康に陣羽織を所望させた逸話にも、前もって打ち合わせた「芝居」だったという見方があります。そう考えると、母を三河へ送るにあたって、秀吉が妹のあさひにも何らかの段取りを伝えていたとしても、不思議ではないように思います。たとえば「母上が来られたら、心細さをこらえて待っていた娘として迎えよ」といった程度のことです。
もしあさひが、兄の思惑をわかったうえで母を迎え、徳川の家臣たちの前で再会の涙を見せていたのだとしたら、44歳で見知らぬ土地に嫁いだ彼女もまた、豊臣兄弟の天下取りを支えた一人だったことになります。記録の上では名前しか残らないあさひですが、筆者はそんな姿を思い浮かべながら、この場面を見ています。
大河ドラマ『豊臣兄弟!』では
第41回「家康の野望」では、あさひの輿入れでも動かなかった家康が、なかを人質に差し出されてついに上洛します。岡崎での母と娘の再会がどう描かれるのか、あさひが何を知っていたのかは、注目したい点です(第41回「家康の野望」あらすじと展開予想)。大政所が人質と知っていたのかどうかについては、姉妹サイトの日本の歴史ガイド「大政所(なか)とは」でも取り上げています。
よくある質問
大政所はなぜ岡崎へ行ったの?
表向きの名目は、家康に嫁いだ娘のあさひを見舞う(会いに行く)ためでした。実際には、徳川家康を大坂へ上洛させるための人質です。秀吉の母が徳川の領地にいるあいだは、秀吉は家康に手出しできません。そのため家康は安心して大坂へ行くことができました。
あさひはこのとき本当に病気だったの?
天正14年(1586)の時点で、あさひが病気だったことを示すはっきりした記録は見当たりません。「見舞い」は母が娘をたずねる旅を言いあらわす名目だったと考えられます。
「見舞い」は病気でなくても使う言葉なの?
はい。「見舞い」は本来、病人をたずねることだけでなく、災難にあった人を慰めることや、離れて暮らす身内の様子をうかがう訪問にも使われる言葉です。「陣中見舞い」もその一つです。
秀吉があさひに出した密命の手紙は残っている?
そうした書状や記録は知られていません。ただ、岡崎であさひが母と対面したことで、徳川方が「本物の秀吉の母が来た」と納得したという話が伝わっており、あさひが人質の交換で大事な役目を果たしたことはうかがえます。
大政所は岡崎にどのくらいいたの?
天正14年10月18日ごろに岡崎に着き、家康が大坂から三河へ戻った11月に、井伊直政らに送られて大坂へ帰りました。滞在はおよそ1か月足らずでした。
本多重次が薪を積んだ話は本当?
宿所のまわりに薪を積ませ、家康の身に何かあれば火をつける構えを見せたという話は、後の時代の記録に伝わる逸話です。同じ時代の確かな史料で裏づけられているわけではありませんが、徳川家臣の警戒ぶりをよく表す話として知られています(本多重次)。
あさひが病気で亡くなったのはいつ?
天正16年(1588)に母の病気を見舞って京へのぼり、そのまま天正18年(1590)1月、聚楽第で亡くなりました。48歳でした。
まとめ
天正14年に母のなかが岡崎へ下ったとき、名目は「嫁いだ娘のあさひを見舞う」ことでした。しかし、あさひがこのとき病気だったという記録は見当たらず、「見舞い」はもともと病気に限らない、身内の様子をうかがう訪問を指す言葉でもありました。秀吉からあさひへの密命を示す史料もありません。それでも、岡崎で母と対面したあさひは、人質が本物であることを示す大事な役目を果たしました。2年後には、今度は本当に病に伏せった母を、あさひが京へ見舞うことになります。

































