大河ドラマ『豊臣兄弟!』で倉沢杏菜さんが演じるあさひは、秀吉・秀長の妹です。第40回では夫と別れて徳川家康に嫁ぎ、第41回では母のなかが人質として岡崎に向かいます。では、あさひと兄の秀吉・秀長、姉のともは、同じ父母から生まれたきょうだいだったのでしょうか。この記事では、末っ子のあさひを中心に、4人きょうだいの父母と、それぞれの家族がたどった運命を家系図で整理します。
4人の母は全員、なか(のちの大政所)です。父については、昔から「ともと秀吉は木下弥右衛門の子、秀長とあさひは、なかの再婚相手の竹阿弥(筑阿弥)の子」とする異父きょうだい説が広く知られてきました。
ただし、秀長が生まれたのは弥右衛門が亡くなる前だったと考えられることなどから、近年は「少なくとも秀長までは同じ父」とみる説も有力です。あさひについても、どちらの父の子かははっきりしません。確かなのは、4人が同じ母のもとで育ったきょうだいだったということです。
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4人きょうだいの早見表
| 名前 | 生まれ年(通説) | 父(通説) | 配偶者 | 子ども | 最期 |
|---|---|---|---|---|---|
| とも(姉・のちの日秀尼) | 天文3年(1534) | 木下弥右衛門 | 弥助(のちの三好吉房) | 秀次・秀勝・秀保 | 寛永2年(1625)、92歳。きょうだいでいちばん長生き |
| 秀吉(兄) | 天文6年(1537) | 木下弥右衛門 | 寧々(北政所) | 実子は早くに亡くなる。晩年に秀頼 | 慶長3年(1598)、62歳 |
| 秀長(兄) | 天文9年(1540) | 竹阿弥(異父説)/弥右衛門(同父説) | 慶(智雲院) | 娘たち。跡継ぎは養子の秀保 | 天正19年(1591)、52歳 |
| あさひ(妹・末っ子) | 天文12年(1543) | 竹阿弥(異父説)/弥右衛門とも | 副田甚兵衛、のち徳川家康 | なし | 天正18年(1590)、48歳 |
ドラマでは、ともを宮澤エマさん、ともの夫の弥助を上川周作さんが演じています。年齢差でみると、あさひはともより9歳下、秀吉より6歳下、秀長より3歳下で、いちばん年の近い兄が秀長でした。
あさひのまわりの人びと(イラスト)
イラストをクリックすると、それぞれの人物ページに移ります。
家系図で見る ― なかの4人の子どもたち
木下弥右衛門(天文12年ごろ没) = なか(大政所) = 竹阿弥(再婚相手とされる)
├ とも(長女) = 弥助(三好吉房)
│ └ 秀次(秀吉の養子、関白)・秀勝(秀吉の養子)・秀保(秀長の養子)
├ 秀吉(長男) = 寧々
│ └ 鶴松・秀頼(母は茶々)
├ 秀長(次男) = 慶
│ └ 養子・秀保(ともの三男)
└ あさひ(次女) = 副田甚兵衛 → 離縁 → 徳川家康
└ 子はなし
※異父説では、秀長とあさひが竹阿弥の子とされる
父は同じ? 違う? ― 弥右衛門と竹阿弥
異父きょうだい説のもとになっているのは、江戸時代に書かれた『太閤素生記』などの記録です。そこでは、秀吉の父の木下弥右衛門が亡くなったあと、なかが竹阿弥という人と再婚し、秀長とあさひが生まれた、と書かれています。秀吉が継父とうまくいかず、少年のころに家を出たという話も、この筋立てと結びついて語られてきました。
一方で、弥右衛門が亡くなったのは天文12年(1543)の初めとされ、天文9年生まれの秀長はそれより前に生まれています。このため、秀長は弥右衛門の子と考える研究者も少なくありません。天文12年生まれのあさひは、ちょうど父の死の前後に生まれたことになり、どちらの子ともいい切れないのが実情です。
どちらの説をとっても、4人が同じ家で育ったことに変わりはありません。異父説をめぐるくわしい議論は、姉妹サイトの日本の歴史ガイド「豊臣秀長と秀吉の出自」で取り上げています。この記事では、4人のきょうだいがその後どう生きたかに目を向けます。
姉・とも ― 3人の息子をすべて豊臣家に差し出した長女
長女のともは、弥助という男性と結婚し、3人の男の子を産みました。秀吉の出世とともに夫の弥助も取り立てられ、のちに三好吉房と名乗ります。
子どものいなかった秀吉にとって、ともの息子たちは大事な「身内の男子」でした。長男の秀次は秀吉の養子となって関白にまでのぼり、次男の秀勝も秀吉の養子に、三男の秀保は秀長の養子となって大和郡山を継ぎます。ともの家族は、まるごと豊臣家を支える柱になったのです。
しかし3人とも、母より先に亡くなりました。秀勝は文禄元年(1592)に朝鮮出兵の陣中で病死し、秀保は文禄4年(1595)に17歳で急死(豊臣秀保の死の真相)、同じ年に秀次は秀吉の命で切腹します。ともは出家して日秀と名乗り、京で息子たちの菩提をとむらいながら、寛永2年(1625)まで生きました。豊臣家の滅亡も見届けたことになります。
兄・秀吉 ― 子に恵まれず、きょうだいの子を跡継ぎに
豊臣秀吉は、寧々とのあいだに子どもがいませんでした。長浜時代に生まれたとされる男子(石松丸秀勝)も幼くして亡くなっています。そのため秀吉は、姉ともの息子たちや、寧々の親類などを養子に迎えて家を固めようとしました。妹のあさひを家康に嫁がせたのも、きょうだいを「家の駒」として使うという点では同じ考え方です。
晩年に茶々(淀殿)とのあいだに鶴松・秀頼が生まれると、秀吉の関心はわが子に移ります。それが、甥の秀次の悲劇につながっていきました。
兄・秀長 ― あさひといちばん年の近い兄
豊臣秀長は、あさひより3歳上で、きょうだいの中でいちばん年が近い兄でした。異父説をとれば、秀長とあさひは同じ竹阿弥を父にもつ「同父のきょうだい」ということになります。ドラマで、あさひの縁談をめぐって秀長が心を痛める姿が描かれるのは、こうした近さを意識しているのかもしれません。
秀長にも跡を継ぐ男子がおらず、姉ともの三男・秀保を養子に迎えました。秀長は天正19年(1591)に病で亡くなり、豊臣家は大事な調整役を失います。くわしくは豊臣秀長の誕生と若き日もご覧ください。
妹・あさひ ― 末っ子は、最後に家康への「縁」となった
あさひの若いころのことはよくわかっていませんが、兄の出世によって武士の妻となり、夫の副田甚兵衛とともに豊臣家に仕える立場になりました。ところが天正14年(1586)、小牧・長久手の戦いのあとも臣従しない家康との和睦のため、秀吉はあさひを夫と別れさせ、家康の正室として嫁がせます。このときあさひは44歳でした。

浜松、ついで駿府で暮らしたあさひは「駿河御前」と呼ばれました。母のなかが人質として岡崎に来たときには、母と再会したとも伝わります。その後、母の病気見舞いのために上洛し、天正18年(1590)に京で亡くなりました。子どもはいませんでした。くわしくは朝日姫の人物ページと旭姫(朝日姫)の最期をご覧ください。
4人を並べると見えてくること
4人きょうだいの人生を並べると、共通点が見えてきます。それは、秀吉の天下取りのために、それぞれの家族が差し出されたということです。
- ともは、3人の息子(秀次・秀勝・秀保)を豊臣家の跡継ぎ候補として差し出した
- 秀長は、自分の人生そのものを兄の補佐にささげた
- あさひは、夫と別れて家康のもとへ嫁いだ
- 母のなかまで、人質として岡崎に送られた
家臣の少ない百姓出身の秀吉にとって、信頼できるのは血のつながった家族だけでした。豊臣家は、いわば「きょうだいの家族」で成り立っていた家です。だからこそ、秀長やあさひが亡くなり、ともの息子たちが次々に世を去ると、豊臣家は急速に支えを失っていきました。
ドラマのあさひと、きょうだい
ドラマでは、あさひは明るく、きょうだいの中でいちばん素直な人物として描かれています。第40回では、夫の甚助と別れることを笑顔で受け入れ、家康のもとに嫁ぎました。第41回では、母のなかが人質として岡崎に入ります。母と娘がどんな形で再会するのかは、次回の見どころのひとつです(第41回「家康の野望」あらすじと展開予想)。
まとめ
あさひ、秀長、秀吉、ともの4人は、全員が母なかの子です。父については、ともと秀吉が木下弥右衛門の子、秀長とあさひが竹阿弥の子とする異父説が知られていますが、秀長も弥右衛門の子とみる説も有力で、はっきりとはわかっていません。確かなのは、4人とその家族が、そろって秀吉の天下取りを支えたことです。末っ子のあさひは、その最後の大きな役目として、家康に嫁ぎました。


































