くたみ あきやす
| 地域 | 九州 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 大友家臣 |
| 大名家 | 大友 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀・行政書状 |
| 衣装・甲冑 | 重臣具足 |
| 武将タイプ | 大友宿老・忠臣 |
朽網鑑康(くたみ あきやす)は大友氏一族の入田氏の出身で、絶えていた朽網氏を継いだ。法名は宗暦。大友氏の加判衆を務め、多々良浜の戦いや耳川の戦い、筑後遠征に加わった。豊薩合戦のさなか、居城の山野城に籠城中に病死した。
入田氏から朽網氏へ
朽網鑑康は文亀2年(1502年)に生まれた。大友氏の一族である入田親廉の次男で、初めは入田鑑康と名乗った。「鑑」の字は主君の大友義鑑から与えられたものである。
朽網氏は豊後国直入郡(大分県竹田市周辺)の朽網郷を本拠とした大友氏の一族である。嫡流は朽網親満の謀反で絶えていた。鑑康がその名跡を継ぎ、朽網鑑康と改めた。居城は山野城である。法名は宗暦(宗歴とも書く)。
加判衆として
永禄12年(1569年)から、大友氏の加判衆を務めた。加判衆は当主の文書に連署する重臣で、大友氏の政務の中枢にあたる。
同じ永禄12年の多々良浜の戦いでは、一萬田鑑実父子とともに毛利方の乃美宗勝・桂元重を退けたとされる。筑前をめぐる大友氏と毛利氏の争いの一戦である。
耳川の戦いと筑後遠征
天正6年(1578年)の耳川の戦いでは、志賀親守とともに肥後方面の軍の大将を務めたとされる。この戦いで大友軍は島津軍に大敗した。
その後、大友氏は龍造寺氏・島津氏に押されていく。天正12年から13年(1584〜85年)の筑後遠征にも加わり、龍造寺・筑紫の軍と戦った。
豊薩合戦のなかでの死
天正14年(1586年)、島津氏が豊後に攻め込んだ(豊薩合戦)。鑑康はすでに隠居し、病床にあった。支城の三船城を守っていた嫡子の鎮則(宗策)は山野城へ退き、鑑康も共に籠城した。その籠城中、天正14年12月22日(1587年1月)に病死した。85歳であった。
朽網氏はこの戦いの中で島津方に降った。鎮則はその後、大友義統の追っ手から逃れられず自害したと竹田市の資料は伝える。
ゆかりの地
- 山野城跡(竹田市):朽網氏の居城。鑑康は豊薩合戦の籠城中にここで病死した


























