いい なおまさ
| 地域 | 東海 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 徳川家臣 |
| 大名家 | 徳川 |
| 家紋 | 丸に橘 |
| 主武器 | 大槍・朱塗兜 |
| 衣装・甲冑 | 赤備え具足 |
| 武将タイプ | 「井伊の赤鬼」・苛烈 |
井伊直政は遠江国井伊谷の国衆・井伊直親の子として生まれた。今川氏による父の粛清後、幼くして各地を逃れ隠れ住む不遇の少年期を送るが、後に徳川家康に見出されて小姓として仕えるようになり、その才覚と美貌、そして武勇によって急速に頭角を現していった。
武田家滅亡後、家康は旧武田家臣団を吸収する際、直政にその指揮を任せた。直政はこれを機に、武田軍の象徴であった朱色の甲冑「赤備え」を自らの軍団にも採用し、以後「井伊の赤備え」として天下にその勇猛さを轟かせることとなる。
小牧・長久手の戦いをはじめとする数々の合戦で先陣を切って活躍し、その苛烈な戦いぶりから敵味方から「井伊の赤鬼」と恐れられた。徳川四天王の一人として本多忠勝・榊原康政・酒井忠次と並び称され、外交面でも豊臣家との交渉役を務めるなど、武勇と教養を兼ね備えた家臣であった。
関ヶ原の戦いでは東軍の主力として奮戦し、島津軍の敵中突破「島津の退き口」を追撃する中で銃創を負う。この傷がもとで健康を害しながらも、戦後は西軍諸将との和睦交渉や近江佐和山18万石の統治にあたり、徳川家臣団の中でも最高の待遇を受ける大名へと上り詰めた。
1602年、関ヶ原での戦傷が悪化して42歳の若さで死去する。跡を継いだ子孫は近江彦根藩を治め、江戸幕府の重職である大老を輩出する名門譜代大名として幕末まで存続した。赤備えの猛将として名を馳せた直政の武名と統治手腕は、彦根藩の礎として長く受け継がれることとなった。

