はせがわ ひでかず
| 地域 | 北陸(越前) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 織田家・豊臣家の家臣 |
| 大名家 | 長谷川家 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | ―(采配) |
| 衣装・甲冑 | 具足・陣羽織 |
| 武将タイプ | 側近から大名になった武将 |
長谷川秀一(はせがわ ひでかず)は、尾張の出身で、若いころから織田信長の小姓として仕えた武将である。織田家中では「長谷川竹」と呼ばれた。信長の奉行衆として働いたのち、本能寺の変では徳川家康の伊賀越えを案内し、のちに豊臣秀吉のもとで越前東郷15万石の大名となった。文禄の役のさなかに亡くなり、家は続かなかった。
信長の側近として
秀一は小姓として信長のそばに仕え、やがて堀秀政・菅屋長頼らとともに奉行衆の一人として重い役目を任されるようになった。天正7年(1579)の安土宗論では会場の警備にあたり、近江の信長直轄領では代官もつとめている。
家康の伊賀越えを案内する
天正10年(1582)、秀一は信長の命で、安土に招かれた家康の接待役となり、堺の見物にも同行していた。その途中で本能寺の変が起こる。秀一は土地に不案内な家康一行の道案内を買って出て、旧知の宇治田原城主・山口氏や、信楽の多羅尾光俊に協力を求め、伊賀を越えて三河へ抜ける道を確保した。秀一自身も尾張の熱田まで家康に同行している。家康にとって生涯最大の危機ともいわれる伊賀越えは、秀一の人脈に支えられていた。
秀吉のもとで越前東郷15万石
本能寺の変ののち、秀一は秀吉に従った。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、三好信吉(のちの豊臣秀次)の隊が徳川軍に襲われた際に加勢して奮戦し、撤退の殿もつとめた。翌年の紀州攻めののち、越前東郷15万石を与えられ、「東郷侍従」と呼ばれる大名となる。天正16年(1588)の聚楽第行幸では、起請文に名を連ねた23人の一人だった。
文禄の役と長谷川家の行方
天正18年(1590)の小田原征伐では山中城攻めに加わり、文禄元年(1592)からの文禄の役では5000の兵を率いて朝鮮に渡った。名護屋城のまわりには秀一の陣跡が残り、国の特別史跡となっている。秀一は文禄の役のさなかに亡くなったが、没年は文禄2年(1593)とも文禄3年(1594)ともいわれ、はっきりしない。跡を継いだ弟の秀康も慶長3年(1598)に亡くなり、長谷川家は大名として続かなかった。
長谷川秀一をめぐる人物
ゆかりの地
- 東郷槇山城跡(福井県福井市):秀一の居城があった地
- 長谷川秀一陣跡(佐賀県東松浦郡玄海町):名護屋城を囲む陣跡のひとつ(国の特別史跡)


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