豊薩合戦をわかりやすく解説|家康が上洛したころ九州では何が起きていたのか ― 島津の豊後侵攻、岡城・栂牟礼城の抵抗、戸次川の大敗

豊後へ攻め込む島津軍(イメージ)

天正14年(1586)の秋、徳川家康がついに上洛して豊臣秀吉に臣従したちょうどそのころ、九州では薩摩の島津家が大軍で豊後(いまの大分県)に攻め込んでいました。大友家の領国をめぐるこの戦いを豊薩合戦(ほうさつかっせん)と呼びます。岡城の志賀親次や栂牟礼城の佐伯惟定のように島津の大軍をはね返した城主がいた一方で、豊臣方の援軍が大敗した戸次川の戦いも、この戦いの中で起きました。大河ドラマ『豊臣兄弟!』で描かれる家康の上洛と同じ時期の九州で、何が起きていたのかをわかりやすく解説します。

先に答え

豊薩合戦は、九州統一をめざす島津家が、豊臣秀吉の停戦命令を受け入れず、天正14年10月に肥後口と日向口の二方面から大友家の豊後へ攻め込んだ戦いです。

島津軍は豊後の多くの城を落とし、12月には戸次川の戦いで豊臣方の援軍を破って大友家の本拠・府内を占領しました。しかし岡城・栂牟礼城・臼杵城などは最後まで落ちず、翌天正15年に秀吉・秀長の大軍が九州に入ると、島津軍は豊後から引き揚げます。この戦いが、秀吉の九州征伐の直接のきっかけになりました。

豊薩合戦の基本データ

いつ 天正14年(1586)10月〜天正15年(1587)3月ごろ
どこ 豊後国(いまの大分県)の各地。大野郡・直入郡・海部郡、府内(大分市)、臼杵など
対立 島津家(当主・島津義久。弟の義弘と家久が大将)× 大友家(大友宗麟・義統父子)と、豊臣方の援軍
兵力 島津義弘の肥後口軍が約3万、島津家久の日向口軍が約1万と伝わる
結果 島津軍が府内を占領するが、岡城・栂牟礼城・臼杵城などは落ちず。翌年、豊臣軍の到着で島津軍は撤退
この後 天正15年の九州征伐。日向では秀長が根白坂の戦いで島津軍を破り、島津義久は秀吉に降伏する

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目次

豊薩合戦に登場する主な武将

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なぜ島津は豊後に攻め込んだのか

天正6年(1578)の耳川の戦いで大友軍が島津軍に大敗してから、九州の力関係は大きく変わりました。島津家は天正12年(1584)の沖田畷の戦いで肥前の龍造寺隆信を討ち取り、肥後・肥前・筑後へと勢力を広げます。残る大きな敵は、豊後と筑前を押さえる大友家だけになりました。

追い詰められた大友宗麟は、天正14年4月に自ら大坂城を訪れ、秀吉に助けを求めます。秀吉はすでに前年、九州の大名たちに戦いをやめるよう命じていました(九州停戦令)。しかし島津義久は、この命令にも、秀吉の示した国分け案にも従いませんでした。島津家から見れば、自分たちが勝ち取った領地の多くを大友家に返せという案は、とうてい受け入れられるものではなかったのです。

島津軍はまず天正14年7月、筑前に攻め込んで岩屋城を落とします。城主の高橋紹運以下の城兵は全員が討死しましたが、島津軍も大きな損害を受け、立花宗茂の守る立花山城は落とせませんでした。やがて毛利家などの豊臣方の先発隊が九州に渡ってくると、島津軍は筑前から兵を引き、狙いを大友家の本国・豊後に切りかえます。

戦いの流れ① 二方面からの侵攻 ― 天正14年10月

天正14年10月、島津軍は二手に分かれて豊後に攻め込みました。

  • 肥後口(西から):島津義弘が率いる本隊。阿蘇の山あいを越えて、豊後南西部の直入郡・大野郡に入る
  • 日向口(南から):島津家久が率いる別働隊。日向から峠を越えて、豊後南部の海部郡・大野郡に入る

大友家の内部はこのころすでにまとまりを欠いており、入田義実や志賀親度(志賀親次の父とされる)など、島津方に寝返って道案内をつとめる家臣も出ました。このため島津軍は、豊後南西部の城を次々と手に入れていきます。家康が大坂城で秀吉に頭を下げたのは、まさにこの侵攻が始まった直後のことでした。

肥後 日向 豊後 別府湾 島津義弘軍(約3万)肥後口から 島津家久軍(約1万)日向口から 府内(大友家の本拠) 鶴賀城(利光宗魚) 戸次川の戦い 臼杵城(大友宗麟) 岡城(志賀親次) 栂牟礼城(佐伯惟定) 最後まで落ちなかった城島津軍の手に落ちた城・町
豊薩合戦の主な城と島津軍の進路(位置はおおよその略図)

戦いの流れ② 落ちなかった城 ― 岡城・栂牟礼城・鶴賀城

ところが、島津軍の前に立ちはだかる城がいくつもありました。

岡城(義弘軍):直入郡の岡城を守っていたのは、まだ20歳前後の若い城主・志賀親次でした。岡城は川にはさまれた断崖の上に建つ天然の要害です。親次は父の親度が島津に寝返るなかでも大友方にとどまり、義弘の大軍に囲まれても城を守り抜きました。さらに城外の砦でも島津軍を打ち破り、義弘の進軍を大きく遅らせます。この戦いぶりは秀吉にも伝わり、親次はのちに賞賛を受けました(くわしくは岡城の戦いをわかりやすく解説)。

岡城の近くの山野城では、老将の朽網鑑康が奮戦しましたが、籠城中に亡くなり、城は開かれました。

栂牟礼城(家久軍):豊後南部の佐伯では、佐伯惟定が栂牟礼城にこもって家久軍に抵抗しました。惟定は城を守るだけでなく、城外に出て島津の部隊を待ち伏せし、打ち破ったと伝わります。山あいの因尾(いんび)では、地元の百姓たちが砦にこもって島津軍を退けたという話も残っています。

鶴賀城(家久軍):府内の南、大野川のほとりにある鶴賀城では、城主の利光宗魚が家久の大軍を迎え撃ちました。宗魚は城から指揮をとるうちに銃弾に倒れましたが、残った城兵はなおも抵抗を続け、大友家と豊臣方の援軍が来るまで持ちこたえました。

戦いの流れ③ 戸次川の大敗と府内陥落 ― 天正14年12月

鶴賀城を救うため、大友義統(宗麟の子)は、秀吉が四国から送ってきた援軍とともに出陣しました。軍監の仙石秀久、十河存保、長宗我部元親・信親父子らです。

天正14年12月12日、援軍は大野川(戸次川)をはさんで家久軍と向き合いました。元親は秀吉の本隊を待つべきだと主張しましたが、仙石秀久は川を渡って攻めかかることを強く主張し、その意見が通ります。川を渡った援軍は、島津軍が得意とする「釣り野伏せ」、つまり一度退いたふりをして敵を誘い込み、伏兵で包み込む戦法にはまり、総崩れになりました。長宗我部信親と十河存保はここで討死しています。くわしくは戸次川の戦いをわかりやすく解説をご覧ください。

戸次川を渡った豊臣方の援軍に襲いかかる島津軍の釣り野伏せ
戸次川を渡った豊臣方の援軍に、伏せていた島津軍が左右から襲いかかる「釣り野伏せ」(イメージ)

この大敗で鶴賀城も降伏し、大友義統は本拠の府内を捨てて豊前方面へ逃れました。家久は府内に入り、町の多くは戦火で焼けたといわれます。

戦いの流れ④ 宗麟の臼杵城と「国崩し」

府内を落とした島津軍が次にねらったのは、大友宗麟がこもる臼杵の丹生島城(臼杵城)でした。この城は海に突き出た島の上にあり、陸からは攻めにくい城です。宗麟はここで、南蛮貿易で手に入れた大砲「国崩し」を使って島津軍を迎え撃ったと伝わります。家臣の柴田礼能も城外で奮戦しました。島津軍は城下に火を放ったものの、城そのものは落とせませんでした。

臼杵城から大砲「国崩し」を放つ大友宗麟の城兵
海に突き出た臼杵城から、南蛮渡来の大砲「国崩し」で島津軍を迎え撃つ大友宗麟の城兵(イメージ)

戦いの流れ⑤ 豊臣軍の到着と島津軍の撤退 ― 天正15年3月

年が明けた天正15年(1587)、秀吉はいよいよ自ら九州へ向かいます。先に豊前・豊後に入った豊臣秀長の大軍が迫ると、豊後にいた島津軍は、本国へ引き揚げるしかなくなりました。撤退する島津軍には、それまで城を守り抜いた志賀親次や佐伯惟定らが追い打ちをかけ、大きな損害を与えたといいます。

こうして豊後の戦いは終わり、舞台は日向に移ります。4月、秀長は日向の高城を囲み、救援に来た島津軍を根白坂の戦いで破りました。5月には島津義久が剃髪して秀吉に降伏し、九州は豊臣の支配下に入ります。

年表で見る豊薩合戦

年月 九州の出来事 同じころ、上方では
天正13年(1585)10月 秀吉が九州の大名に停戦を命じる 秀吉、前年の小牧・長久手のあと家康との交渉続く
天正14年(1586)4月 大友宗麟が大坂城で秀吉に助けを求める あさひと家康の縁組が決まる
天正14年7月 島津軍が筑前の岩屋城を落とす (5月にあさひが浜松で家康と婚礼)
天正14年10月 島津軍が肥後口・日向口から豊後へ侵攻 家康が上洛し、大坂城で秀吉に臣従
天正14年12月 戸次川の戦い。島津家久が府内を占領 秀吉が太政大臣となる
天正15年(1587)3月 豊臣軍が九州に入り、島津軍が豊後から撤退 秀吉、大坂を出陣
天正15年4〜5月 根白坂の戦い。島津義久が降伏  

豊薩合戦のその後

九州平定のあと、大友義統は豊後一国の大名として残されました。しかし文禄2年(1593)、朝鮮出兵での失態をとがめられて領地を取り上げられ、大友家は大名の座を失います。志賀親次も岡城を離れ、岡城にはのちに中川家が入りました。豊薩合戦で島津の大軍をはね返した城主たちの多くは、主家の改易とともに歴史の表舞台から姿を消していきました。

一方の島津家は、薩摩・大隅と日向の一部を安堵され、大名として生き残ります。のちの関ヶ原の島津の退き口につながる島津家の粘り強さは、この九州の戦いでも存分に示されていました。

大河ドラマ『豊臣兄弟!』との関係

ドラマの第41回「家康の野望」では、家康の上洛と臣従が描かれます。そのころ九州では、ここで紹介した豊薩合戦が起きていました。秀吉が家康との和睦を急いだ理由のひとつは、九州に大軍を送るために、東の家康との緊張を解いておく必要があったからです。次の大きな舞台となる九州征伐では、秀長が日向方面の総大将として活躍します(第41回「家康の野望」あらすじと展開予想)。

まとめ

豊薩合戦は、天正14年から15年にかけて、島津家が大友家の豊後に攻め込んだ戦いです。島津軍は戸次川の戦いで豊臣方の援軍を破り、府内を占領するところまで進みましたが、岡城の志賀親次、栂牟礼城の佐伯惟定、臼杵城の大友宗麟らが最後まで城を守り抜き、豊後をすべて手に入れることはできませんでした。そして翌年、秀吉・秀長の大軍が九州に入ると、島津軍は撤退し、やがて降伏します。家康の臣従と同じ年に起きたこの戦いが、豊臣の天下統一を九州へと進める直接のきっかけになりました。

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