石田三成の最期 ― 関ケ原からの逃避行と捕縛、そして六条河原へ

伊吹山の山中を落ちていく敗走の石田三成

関ケ原の戦いに敗れた西軍の総指揮官、石田三成。多くの将が討死や自害を選ぶなか、三成は戦場を離れ、再起を期して落ち延びました。しかしその逃避行は、病と山中の彷徨の果てに終わりを迎えます。天下を賭けた男の最期をたどります。

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敗軍の将の逃避行

西軍が総崩れとなったとき、三成は自害せず戦場を脱しました。まだ大坂城には毛利輝元と豊臣秀頼がおり、態勢を立て直す望みが残っていたからです。三成は近江の故郷を目指し、供の者とわずかな人数で山中へ分け入っていきました。ここからの数日が、彼の運命を決めます。

病を押して伊吹山へ

このとき三成は、腹を下して体調を著しく崩していたと伝わります。もともと病がちだった身に、敗戦の疲労が重なりました。それでも三成は大坂の方角へは向かわず、追手の少ない伊吹山系の山中を選んで北へ逃れます。敵の目を避けながら、生まれ育った近江の地へと、病身をおして歩き続けました。

古橋村の岩窟に潜む

三成がたどり着いたのは、故郷にほど近い古橋村(現在の滋賀県)でした。村人にかくまわれ、岩屋(洞窟)に身を潜めたと伝わります。かつて自分の領内であった土地の人々が、落ちのびた三成を見捨てずに支えたのです。しかし敗軍の総大将の潜伏を、いつまでも隠し通すことはできませんでした。

田中吉政の兵に見つかる

関ケ原ののち、徳川家康は敗将の捜索を諸将に命じます。三成の探索にあたったのが、かつての同僚でもある田中吉政でした。慶長五年(一六〇〇)、吉政の兵が古橋村の潜伏先を突き止め、三成はついに捕らえられます。天下を動かした男が、故郷の山あいで縄を打たれたのです。

市中を引き回されて

捕らえられた三成は家康のもとへ送られ、小西行長安国寺恵瓊とともに、大坂・堺・京の市中を引き回されました。かつての栄華を知る人々の前をさらされながら進む屈辱の道行きです。それでも三成は取り乱すことなく、最後まで西軍の大義を曲げなかったと伝わります。

六条河原の最期

慶長五年十月、三成は京の六条河原で斬首されました。処刑の場へ向かう途中、喉が渇いた三成が湯を求めたところ、白湯がないので柿はどうかと勧められると、「柿は痰の毒だ」と断ったという逸話が伝わります。まさに刑場へ向かう身でありながら、なお体を気づかった——最後まで生き抜く気概を捨てなかった三成らしい話として語り継がれています。家臣団に慕われ、島津すら一目置いた男は、こうして生涯を閉じました。

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