2026年の大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代に、秀吉の飛躍を陰で支えた智将が竹中半兵衛(たけなか はんべえ/重治)です。「今孔明(いまこうめい)」と呼ばれたこの名軍師の居城が、放送でも特集された美濃の菩提山城(ぼだいさんじょう)でした。山城に育った国人領主が、いかにして天下人・秀吉の軍師となったのか。その短くも鮮烈な生涯をたどります。
菩提山城と竹中氏
菩提山城は美濃国不破郡(現在の岐阜県垂井町)に築かれた山城で、竹中半兵衛の居城として知られます。父の竹中重元が整えた竹中氏の本拠で、標高およそ四百メートルの菩提山に築かれた堅固な要害でした。半兵衛はこの美濃の山城を拠点に、西美濃の国人領主として身を立てていきます。険しい山上に曲輪を重ねたその姿は、戦国の山城の典型でもありました。
わずか十六人で稲葉山城を奪う
半兵衛の名を一躍高めたのが、永禄7年(1564年)の稲葉山城乗っ取りです。主君・斎藤龍興の不甲斐なさを諫めるため、半兵衛はわずか十六人ほどで、難攻不落と謳われた稲葉山城を奪い取ってしまいました。織田信長ですら手を焼いた城を短期間で陥れたこの事件は、若き半兵衛の知略を世に知らしめます。しかも彼は半年ほど城を占拠したのち、あっさりと龍興に城を返して立ち去ったと伝わります。
秀吉の三顧の礼
この智将に目をつけたのが羽柴秀吉でした。永禄10年(1567年)頃、秀吉は何度も足を運んで半兵衛を口説き落とし、自らの軍師として迎え入れます。まるで諸葛孔明を三顧の礼で招いた劉備のようだと評され、半兵衛は「今孔明」とも呼ばれました。以後、豊臣秀吉の美濃攻略や近江での戦いにおいて、半兵衛の献策が大きくものを言うことになります。
両兵衛――黒田官兵衛との絆
半兵衛と並び称されたのが黒田官兵衛です。二人は「両兵衛」と呼ばれ、秀吉の頭脳を支えました。有岡城に幽閉された官兵衛が裏切ったと疑われ、信長がその子・松寿丸(のちの黒田長政)の殺害を命じたとき、半兵衛はひそかに松寿丸を匿って命を救います。のちに官兵衛の潔白が明らかになると、この機転が黒田家に深く感謝され、恩義として語り継がれました。
三木合戦、陣中に散る
天正6年(1578年)から始まった播磨・三木城攻め(三木合戦)で、半兵衛は秀吉の参謀として兵糧攻めの指揮に加わります。しかし病には勝てず、天正7年(1579年)、平井山の陣中で喀血して世を去りました。享年三十六。「昔楠木、今竹中」と楠木正成になぞらえられた名軍師は、天下統一の完成を見ることなく、あまりに早くその生涯を閉じたのです。
大河ドラマで見る竹中半兵衛
秀吉が天下人へと駆け上がる土台には、半兵衛のような智将たちの働きがありました。「豊臣兄弟!」で描かれる秀吉と豊臣秀長の兄弟の躍進も、こうした軍師の知略に支えられていたのです。半兵衛の子・竹中重門はのちに関ヶ原で東軍の道案内を務め、竹中氏は菩提山の麓に陣屋を構えて江戸時代を生き抜きました。菩提山城跡を訪ねれば、「今孔明」が見つめた美濃の景色に出会えるはずです。
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