2026年の大河ドラマ「豊臣兄弟!」で、豊臣秀次が築いた八幡山城(はちまんやまじょう)が取り上げられました。いちばんの見どころは、城下をめぐる「八幡堀(はちまんぼり)」です。琵琶湖とつないだこの堀に船を呼び込む工夫が、近江八幡を一大商業都市へと育て、のちの近江商人を生みました。秀次が遺した城と堀、そして今に続く町の物語をたどります。
秀次、近江八幡に城を築く
天正13年(1585年)、豊臣秀次は四国征伐などの功によって近江に四十三万石を与えられ、琵琶湖の東岸にそびえる八幡山(標高およそ二七二メートル)に八幡山城を築きました。豊臣秀吉の後継者と目された若き秀次にとって、これは初めて本格的に一国を治める舞台でした。山上に城を構えると同時に、その麓に城下町・近江八幡を新たに開いたのです。
八幡堀――琵琶湖とつないだ水の道
秀次がこの町のために掘らせたのが「八幡堀」です。八幡堀は、城を守る堀であると同時に、琵琶湖と城下を直接つなぐ水路でもありました。当時、物流の大動脈であった琵琶湖の水運を、堀を通じて城下町の中心まで引き込む――防御と商業の二役を兼ねた、実に巧みな設計でした。
船が必ず立ち寄る町
秀次は、琵琶湖を行き交う荷船を八幡堀へ招き入れる仕組みを整えました。湖上を通る船が城下の堀に立ち寄るようにしたことで、諸国の物資と人が近江八幡へと集まってきます。港と市場が一体となった町には富が蓄えられ、商いは大いに賑わいました。堀に沿って白壁の蔵が立ち並ぶ今の景観は、この繁栄の名残です。
楽市楽座と自由商業都市
秀次は、織田信長が進めた楽市楽座の精神を受け継ぎ、税や座の特権をゆるめて自由な商いを奨励しました。誰もが商売に参入できる開かれた城下町は、多くの商人を惹きつけます。ここで力を蓄えた商人たちこそ、のちに全国を股にかけて活躍する「近江商人」の源流でした。近江八幡は、その発祥の地の一つに数えられます。
わずか五年、そして廃城
もっとも、秀次が近江八幡を治めた期間は長くありません。天正18年(1590年)には尾張清洲へ移り、やがて関白として豊臣秀吉の後継者の座に就きます。ところが秀頼が生まれると立場は暗転し、文禄4年(1595年)の秀次事件で自害。八幡山城もこのとき廃城となりました。それでも秀次が遺した城下町と八幡堀は残り、町は商家町として栄え続けたのです。秀次その人の生涯は豊臣秀次の記事でも詳しく紹介しています。
いま八幡山にのぼる
現在、八幡山の山頂へは八幡山ロープウェーでおよそ四分。山上には、秀次の菩提を弔う瑞龍寺(村雲御所)が建ち、眼下には琵琶湖と近江の町並みが広がります。麓の八幡堀は、白壁の蔵と石畳が続く風情ある水辺として知られ、時代劇のロケ地にもなっています。「豊臣兄弟!」で秀次の物語に触れたら、藤堂高虎の宇和島城や堀尾吉晴の松江城とあわせて、城が町を育てた面白さも味わってみてください。
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