むなかた うじお
| 地域 | 九州 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 宗像氏 |
| 大名家 | 宗像氏 |
| 家紋 | 丸に三ツ柏 |
| 主武器 | 太刀 |
| 衣装・甲冑 | 軽捷具足 |
| 武将タイプ | 薄命・悲壮 |
宗像氏貞の前当主。家中動乱の中で若くして討たれた悲劇の領主。
宗像氏雄とは
宗像氏雄は、戦国時代に宗像大宮司家を継いだ人物です。「氏男」と書かれることもあり、その生涯についての記録は多くありません。
宗像大社と大宮司
宗像大社は、沖ノ島・大島・田島の三つの宮からなる古い神社です。宗像氏は、その神職の長である大宮司を代々務めました。
大内氏との結びつき
戦国時代の宗像氏は、周防・長門の大内氏に従い、その家臣として山口にも出仕していました。
家督を継ぐ
氏雄は、先の当主・宗像正氏の娘を妻に迎えて、家督を継いだとされます。
大寧寺の変
天文20年(1551年)、大内家の重臣・陶隆房(のちの晴賢)が主君の大内義隆に背きました。義隆は長門の大寧寺で自害しました。
氏雄の最期
氏雄は義隆のそばにいて、この変で命を落としたと伝えられます。宗像の地を遠く離れた、山口での最期でした。
跡目をめぐる争い
氏雄の死後、宗像家の跡継ぎをめぐって争いが起こりました。陶方の後ろ盾を得た鍋寿丸(のちの氏貞)が、家督を継ぐことになりました。
山田事件
このとき、氏雄の妻やその母らが殺されたと伝えられます。この出来事は「山田事件」と呼ばれ、のちに祟りの話とともに語り継がれました。
山田地蔵尊
亡くなった女性たちを供養するため、宗像市山田の増福院には地蔵がまつられています。悲しい事件の記憶として、地元で伝えられてきました。
氏貞の時代
家督を継いだ氏貞は、のちに毛利氏と結び、大友方の立花道雪らと争いました。
大宮司家の終わり
天正14年(1586年)に氏貞が亡くなると、宗像大宮司家は跡継ぎがなく、事実上途絶えました。
宗像大社の今
宗像大社と沖ノ島などの関連遺産は、平成29年(2017年)に世界文化遺産に登録されました。
宗像の地
宗像は玄界灘に面した土地で、古くから大陸へ向かう海の道の入り口にあたっていました。
蔦ヶ嶽城
宗像氏は、宗像市の城山にあった蔦ヶ嶽城を本拠としていました。山の上からは、宗像の平野と海を見渡すことができます。
みあれ祭
宗像大社の秋の大祭では、たくさんの漁船が大島から海を渡る「みあれ祭」が行われ、今も多くの人が見守ります。
宗像の海の道
宗像の海は、古代から朝鮮半島や中国大陸へ向かう海の道の入り口でした。
神宝の島
沖ノ島からは、古代の祭りに使われた多くの品々が見つかり、「海の正倉院」とも呼ばれます。
評価
氏雄は、大内家の大きな事件に巻き込まれて命を落とした当主です。その死は、宗像家の跡目争いと悲しい事件のきっかけにもなりました。
このイラストについて
このイラストは、夕日に照らされた海と島々を見下ろして立つ氏雄を描いています。
金色の模様の入った羽織と甲冑の組み合わせで、神社の大宮司でありながら武家としても生きた宗像氏の当主らしさを表しました。
背景の海と島は、沖ノ島や大島など、宗像の海をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
筑前の宗像大社の大宮司を務めた家で、武士としての力も持った。大内氏・大友氏・毛利氏の間で従う相手を変えながら、宗像郡を治めた。
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