堀尾吉晴と松江城 ― 「仏の茂助」が出雲に築いた黒い天守

2026年の大河ドラマ「豊臣兄弟!」に登場する堀尾吉晴(ほりお よしはる)は、秀吉・秀長兄弟のもとで頭角を現し、「仏の茂助(もすけ)」と親しまれた武将です。放送では、吉晴が晩年に築いた松江城が紹介されました。黒い下見板張りの天守で知られる国宝・松江城は、いかにして生まれたのか。温厚な名将の生涯とともにたどります。

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秀吉の子飼い「仏の茂助」

吉晴は天文12年(1543年)、尾張の生まれです。若くして木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)の与力に付けられ、子飼いの家臣として各地を転戦しました。稲葉山城攻めでは道案内を務め、山崎の戦いでは鉄砲頭として奮戦するなど武勇に優れる一方、争いごとの仲裁に力を尽くす温厚な人柄でも知られます。「仏様のようだ」と評され、通称の茂助と合わせて「仏の茂助」と呼ばれました。

三中老に数えられる重鎮

秀吉に従って各地の合戦で戦功を重ねた吉晴は、近江佐和山四万石を経て、小田原征伐ののちに遠江浜松十二万石の大名へと出世します。豊臣秀長ら一門とともに政権を支える重臣となり、のちに中村一氏生駒親正と並んで「三中老」の一人に数えられました。実直で信頼の厚い調整役として、秀吉晩年の政権運営を陰から支えたのです。

関ヶ原と出雲・隠岐二十四万石

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、吉晴は東軍に味方します。ところが帰国の途上、宴席での刃傷沙汰に巻き込まれて重傷を負い、本戦には出陣できませんでした。代わって戦った子・堀尾忠氏が戦功を挙げ、戦後、堀尾家は出雲・隠岐二十四万石を与えられます。かつて尼子経久が拠った出雲の地に、堀尾父子は新たな領国を築くことになりました。

月山富田城から松江へ

堀尾家がまず入ったのは、尼子氏以来の要害・月山富田城でした。しかし険しい山城は城下町の発展に向かず、水運や商いにも不便です。そこで吉晴は、宍道湖のほとりの亀田山に新たな城と城下町を築くことを決めます。慶長12年(1607年)頃に着工した大工事でしたが、跡取りの忠氏はすでに慶長9年(1604年)に早世しており、吉晴は幼い孫・忠晴を後見しながら、自ら築城の指揮を執りました。

松江城――黒い板張りの天守

こうして完成したのが松江城です。慶長16年(1611年)に竣工したその天守は、最上階に望楼を載せた望楼型で、壁面を黒い下見板張りで覆っているのが最大の特徴です。白漆喰の城が増えていく時代にあって、実戦を強く意識した重厚で武骨な黒い天守は、戦国の気風を色濃く残していました。松江城は現存する数少ない天守の一つで、平成27年(2015年)には国宝に指定されています。吉晴はこの城の完成をほぼ見届けるようにして、同じ慶長16年に世を去りました。享年六十八。

堀尾家のその後と大河ドラマ

吉晴が心血を注いだ堀尾家でしたが、跡を継いだ孫の忠晴に世継ぎがなく、寛永10年(1633年)に無嗣断絶となってしまいます。それでも、吉晴の遺した松江城は今も宍道湖畔にそびえ、出雲のシンボルであり続けています。「豊臣兄弟!」で描かれる秀吉と豊臣秀長の躍進を支えた「仏の茂助」の実像は、同じ築城の名手藤堂高虎の足跡とあわせて、ドラマをより深く味わう手がかりになるはずです。なお堀尾吉晴の詳しい経歴は武将ページでも紹介しています。

各武将の生涯や関連する合戦・事件については、姉妹サイトでもくわしく解説しています。あわせてご覧ください。→ 戦国ヒストリー(姉妹サイト)

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