豊臣秀吉が築いた天下は、弟・秀長という名補佐役の存在によって支えられていた。兄の覇業を陰で支え、諸大名から厚い信頼を寄せられた秀長。その秀長が世を去ったとき、豊臣政権は静かに、しかし決定的にその歯車を狂わせ始めた。大河ドラマ「豊臣兄弟!」が描く兄弟の物語は、この秀長の死をもって大きな転機を迎える。豊臣家の運命を変えた、天正十九年(1591)前後の激動をたどる。
豊臣政権の大黒柱・秀長
豊臣秀長は、兄・秀吉をもっとも近くで支え続けた、豊臣政権のなくてはならない大黒柱であった。四国攻めや九州平定では軍の総大将を任され、内政や諸大名との調整においても卓越した手腕を発揮した。大和・紀伊・和泉に百万石を超える大領を治め、大和大納言と呼ばれた秀長は、時に激情に走る兄をいさめ、荒ぶる大名たちの不満を和らげる、政権の「重し」ともいうべき存在であった。「内々のことは(千)利休に、公儀のことは秀長に」と称されたほど、その信頼は絶大であった。
天正十九年、秀長の死
天正十九年(1591)正月、豊臣秀長は郡山城において病のため世を去った。天下が完全に統一され、豊臣の栄華が頂点に達したかに見えたまさにその時であった。兄の覇業を支え続けた名補佐役の死は、豊臣政権にとって計り知れない損失であった。秀長という調整役を失ったことで、政権内部の対立を和らげ、暴走を食い止める力は、大きく損なわれることになったのである。
相次ぐ不幸
秀長の死は、豊臣家を襲う不幸の始まりにすぎなかった。同じ天正十九年、秀吉は、茶の湯の大家であり政権の顧問的存在でもあった千利休に切腹を命じた。「公儀のことは秀長に、内々のことは利休に」と称された二人の重臣を、秀吉はこの年に相次いで失った。さらに同年、秀吉が待望していた実子・鶴松がわずか三歳で夭折する。政権を支える柱と、後継ぎとを一度に失ったこの年は、豊臣家にとって運命の暗転の年となった。
秀次への関白継承
実子・鶴松を失った秀吉は、姉の子である甥・秀次を養子として迎え、後継者に定めた。天正十九年末、秀吉は関白の位を秀次に譲り、自らは太閤となった。これにより、豊臣政権は秀吉と秀次による二頭体制へと移行した。しかし、秀長のような絶対的な調整役を欠いたこの体制は、当初から不安定さをはらんでいた。政権の重心は定まらず、やがて訪れる悲劇の芽が、すでにここに宿っていたのである。
朝鮮出兵と政権の亀裂
秀長の死後、秀吉の統制を和らげる者がいなくなったことは、大陸への出兵という大事業においても影を落とした。文禄・慶長の役では、渡海した諸大名が疲弊し、武断派と文治派の対立が深刻化していった。もし秀長が存命であれば、この無謀ともいえる外征を思いとどまらせ、あるいは家中の対立を調停しえたのではないか。そう惜しむ声は、後世に少なくない。政権の重しを失った豊臣家は、内外の亀裂を深めていった。
秀長がいれば ― 豊臣政権の岐路
文禄二年(1593)に実子・秀頼が誕生すると、後継者であった秀次との関係が悪化し、やがて秀次事件という凄惨な悲劇へと至る。幼い秀頼を残して秀吉が世を去った後、豊臣政権を束ねる者はなく、家中の対立は関ヶ原の戦いへとなだれ込んでいった。もし秀長という大黒柱が長く生きていれば、豊臣の天下はまったく違う道を歩んだのではないか ― 大河ドラマ「豊臣兄弟!」が投げかけるこの問いは、秀長という存在の大きさを、あらためて私たちに教えてくれる。
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