「長宗我部(ちょうそかべ)」――四国を統一した戦国大名として知られるこの名は、全国でも指折りの珍しい四文字の苗字です。なぜこんなに変わった名字なのか、先祖はどこから来たのか。その謎を解く鍵は、はるか古代の渡来人にまでさかのぼる、一族のルーツにありました。
ルーツは渡来人・秦氏
長宗我部氏は、古代の渡来系氏族・秦(はた)氏の末裔を称していました。秦氏は「秦の始皇帝の子孫」を名乗った一族で、大陸から進んだ技術や文化を日本に伝えたとされます。聖徳太子に仕えた秦河勝(はたのかわかつ)はその代表的な人物です。四国の山深い土佐に根を張った長宗我部氏が、実は海を渡ってきた一族の流れをくむ――意外なルーツです。
保元の乱で、土佐へ
その秦氏の子孫とされる秦能俊(はたのよしとし)は、保元元年(1156年)の保元の乱で敗れ、都を追われて土佐国へと逃れたと伝わります。落ち延びた武士が、身元を隠しながら新天地で生き直す――戦乱の時代に、地方へ土着していく武士の典型的な姿でした。この能俊こそが、長宗我部氏の祖とされています。
「宗我部」という地名を名乗る
土佐に落ち着いた能俊は、住み着いた土地の名をとって「宗我部(そがべ)」を名乗りました。この「宗我部」という地名は、古代の豪族・蘇我(そが)氏に仕えた部民(べのたみ)=「宗我部・蘇我部」に由来するといわれます。つまり苗字そのものに、古代日本の氏族制度の記憶が刻まれているのです。渡来人の血と、古代豪族の名――二つの古代が、この一族の名に重なっています。
「長」と「香」――一文字違いの同族
ところが、土佐には「宗我部郷」と呼ばれる土地が二つありました。長岡郡と香美郡です。同じ「宗我部」では紛らわしいため、長岡郡の宗我部を「長宗我部」、香美郡の宗我部を「香宗我部(こうそかべ)」と呼び分けるようになりました。これが、あの珍しい四文字の苗字の正体です。のちに元親の弟が継ぐ香宗我部親泰の家も、もとをたどれば同じ宗我部の一族。長と香の兄弟のような二つの家が、戦国期に一つに結び直されたのです。
七つ酢漿草の旗のもとに
長宗我部氏の家紋は「七つ酢漿草(かたばみ)」。野に強く根を張るカタバミのように、土佐の地にしぶとく勢力を広げていきました。渡来人にさかのぼる古い家柄でありながら、戦国期には土佐の一国人にまで落ちていた長宗我部氏。その家を、再び歴史の表舞台へ押し上げたのが、長宗我部国親とその子でした。
土佐の出来人へ
そして国親の子・長宗我部元親の代に、長宗我部氏はついに四国の大半を制する覇者へと駆け上がります。渡来人のルーツを持ち、古代の地名を苗字に刻んだ一族が、戦国乱世で四国に覇を唱える――「長宗我部」という珍しい名の裏には、千年におよぶ壮大な物語が秘められていたのです。兄弟で支え合った長宗我部一族の歩みも、あわせてお楽しみください。
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